ローマでアモーレ(ウディ・アレン、2012年、アメリカ/イタリア/スペイン)
2013年7月25日
岡山でも今現在一日一回倉敷のシネコンにて、という上映になっているということは8月に岡山で見ようと思っても終わっている公算が大きいと判断したためヒューマントラストシネマ渋谷でウディ・アレン『ローマでアモーレ』を見てきた。
当初その邦題を見たときは、これは『恋のロンドン狂騒曲』の流れの失敗作なんだろうなと勝手に期待値を下げていたのだけど、期待値が低かろうが高かろうが見るのだけど、どうも評判がいいみたい、というのはなんとなく見る前から空気では知っていたのだけど、いざスクリーンの前に座ってしまえば、私にできることなど笑いながら泣くこと以外なにもなかった。
『人生万歳!』、『ミッドナイト・イン・パリ』に続いての、諸手を上げて快哉を叫びたくなる傑作。第二か第三なのかはわからないけれど(私にとっては1977年『アニー・ホール』から1987年『ラジオデイズ』の10年間が最も実り多き季節なので第二ということになるけど)、ここ数年のウディ・アレンは彼のキャリアにおける黄金時代に入っているのではないだろうか。それは長年のファンである私にとって、すごく幸せなことだ。
冒頭の交差点の車の流れ、交通整理の男の身ぶり、そして画面の外で起きる衝突事故。何度となく繰り返されたウディ・アレンのなんか今までもあったよねそういう感じという場面に胸が温かくなる。『アニー・ホール』のコカインだかヘロインだかわからないけど白い粉をくしゃみで吹き飛ばしてしまう場面を見ているときと気分がとても通じる。
そしてフィアンセの親からご両親とも会いたいなと言われた娘が「両親は今向かっているところです」と言った瞬間、妻と飛行機に乗る年老いたウディがたぶん飛行機が揺れるとかそういう事柄に対して過剰な恐怖心をいだいてそれを解消するために早口でまくしたてる場面が脳裏によぎり、そして実際に、飛行機の外観のショットに続いて、機内の座席を縫って進んだ先にカメラがとらえるのは怯えきったウディ・アレンの姿なのだった。彼が予想通りにまくしたて始めただけで、私はわりと胸が一杯になり、目頭から涙的な液体を落とさざるを得なくなった。
そこから先はもう、笑いを引き起こされると同時に涙があふれる、ということに終始して、その涙は、まったくもって、嬉し涙という以外に形容できない性質のものだった。
ペネロペ・クルスの突き抜けた野蛮さとか、文字通りに爆笑させられた葬儀屋のオペラ歌手とか、スィ、グラッツェしか言えない迷った新婦とか、身振りが小気味いいロベルト・ベニーニとか、夫の言動を呆れながら解釈し続ける精神科医とか、どの俳優もどのエピソードも本当によかった。
その中でもエレン・ペイジがスノッブな小悪魔を演じるエピソードはわりと異様で(ベニーニのも異様だけど)とても好ましかった。未来からとも現在からとも言える場所から現れた幽霊がエレン・ペイジの、浅薄な知識から詩行や固有名詞を一行取り出してさもよくわかる女みたいに自分を演出する様子を痛烈に批判するわけだけど、その批判っぷり以上に、幽霊を画面内に留めた状況での会話のあり様が私には面白かった。完全にそこに肉体として存在しながら、Aと話すときにはBには聞こえない、Bと話すときはAには聞こえない、AとB3者で成立する会話もある、というあの自由さ、でたらめさは、すごく健康的でいいものだと思った。
一方で、というかちょっとした懸念というか穿った見方だけれども、ウディ・アレンのだいたいの作品において今回のエレン・ペイジにあたる痛々しいスノッブって出てきていると思うのだけど(『アニー・ホール』の特に書店でアニーに教えを垂れるときのウディ・アレン当人であり、『マンハッタン』でも冒頭の煙草をふかすウディ・アレンであり美術館でいい加減なことを言うダイアン・キートンであり、『ハンナとその姉妹』で自作を朗読するダイアン・ウィーストでありそれを聞いてアメイジングとか言うやはりウディ・アレンであり)、というか多くはウディ・アレンがその痛々しいキャラを背負っている気がするけれど、いや、そんなこともないな、思い出せないけどたぶん全然ウディ以外の多くの人にもそれを負わせているはずなのだけど、知識や教養めいたものを振りかざす厚かましさみたいなものに対してすごく恥の意識みたいなものがあるように見えるし、実際見ていてもすごく恥ずかしい気分にさせられるのだけど、今回みたいにその恥ずかしさを画面上で直接的に揶揄する、もっといえばその恥ずかしさの内実を解説するものって今まであまりなかったような気がして、いや、これは懸念でもないし別にそうだとしても見ていてとても面白かったからなんでもいいのだけど、これ、その解説がなかったらその恥ずかしさみたいなものが現代の多くの観客にスルーされていたりして、とふと思っただけなんだけど、だから何ということは本当にないのだけど、いやそうだとしたらウディ・アレンは歯痒かったりするだろうなと勝手に推測するだけだし別に歯痒くもなかったりするのかなとも思うのだけど、なんかこう、そういうことをふと思った。面白さ及び必要性で幽霊が召喚されたのだろうかと。いやきっとそんなことはないのだろうけど。
まあなんにせよつまり、『ローマでアモーレ』はそこここにウディ・アレン印に満ちた極上の一作で、もう最高だよ!という気分で泣きながら映画館を出ることになった。