7月、アルゼンチン、コロンビア、ペルー、メキシコその他

book

7月に読んだ本の短い感想。

 

アドルフォ・ビオイ=カサーレス/パウリーナの思い出に

パウリーナの思い出に (短篇小説の快楽)

アルゼンチン。短編集。どれも凄まじく面白い。精緻さとデタラメがとても仲良く共存している印象。とてもよかった。

どういう感じで面白いかというと以下のようなところとか。読もうとしている人は読まない方が面白く読めると思うのでという親切な注釈。

「影の下」という作品。愛した女も財産も失って今ではどっかの島の掃除夫として働いている男が長々とその転落の経緯を話していったら最後に突然こんな感じになる。

似ているのと同一であることは、まったく違う。もし何か説明が必要なら、ニーチェとか他の連中が語っている永劫回帰を思い出してもらえばいい。とりあえず一匹の猫について考えてみようまずホテルで火事が起きたとき、その個体を形づくっていた物質は、一度ばらばらになった。そのあと、何かの偶然が作用して、寸分たがわぬ形で再び結合した(P203)

え、えええ!!!いきなりSFに!!??というこの怒涛というかいきなりの転換がすごい。そしてこのよどみのない口調。何度も何度も演説してきたようなそんな様子がすごい。「解説しよう」と言って眼鏡のフレームを上げる博士という様子。今までよれよれの中年男だったのに…

今の私にとって、何かが出現したり、もどってきた場合、自然の出来事というよりも何かの印に見えるんだ。レトという近似的な人物があらわれ、猫は本物のラビニアで、次は君というわけだ。(…)君や他のものの出現によって、ひとつの像が描かれる。それはやがてレダになるんだ(P204)

 

 

ガブリエル・ガルシア=マルケス/誘拐の知らせ

誘拐の知らせ (ちくま文庫)

コロンビア。ジャーナリストとしてのガルシア=マルケスによるノンフィクション。コロンビアの麻薬カルテルがアメリカに引渡しをされる法律を変えてほしいがために色々な要人を誘拐して大統領その他大勢の方々を困らせた事件を細かく描いていく。数人の犠牲者は出たもののわりとみんな解放されていてかつ人質にジャーナリストが多いので観察する意志が強かったのだろう、細かい証言が描写の内容をとても充実させている。

 

人質の見張り番の少年たちに共通するのは宿命を信じて生きているという点だという。そしてみんないい子。

(悪いことに手を染めるのは)自分の母親の幸福を願うためという理由があった。彼らは母親のことを誰よりも愛していて、彼女のためならいつでも死ぬ覚悟ができているのだった彼らは人質たちと同じ聖人たち、「神の子」や「救いのマリア」にすがって生きていた。その庇護と慈悲を求めて毎日、異常な熱意をこめて祈りを捧げ、自分らの犯罪の成功を手助けしてくれるようにと誓いを立てたり献身を約束したりした(P90)

 

人質と見張り役の奇妙な共謀関係とか、人質先で歓待を受けて「早く出られるといいわねえ」と言われたりする感じとかとても面白くて、人質の夫でけっこうキーマンな人が、(いろいろ政府側が要求を飲んだため)投降するカルテルのボス、超大物、妻を誘拐した主導者と初めて会うときの様子とかも、なんだろうその親密さは、という。

手入れの行き届いた温かな手を差し出し、落ち着きはらった声で言った。「いかがですか、ビヤミサル先生」「元気ですか、パブロ」と彼も応じた。(P405)

 

まあめでたしなんだけど、解決までには多大な血が流れていて、ものすごい殺戮が起こっている。メデジンというカルテルの拠点となっている、今だと人口200万人ぐらいの町。

そこでは1991年の最初の二ヶ月間に、1200件の殺人事件があり――1日平均20件――、4日に一度は大量殺人事件が起こっていた。(…)457名の警察官が数ヶ月のうちに殺害されていた。(P258)

 

で、最初の見張り番の少年たちも同じなのだけど、そういう情勢とか経済状況のコロンビアにおいては、まともに働くよりも悪に手を染めちゃう方がわりといいみたいなところがあったりとか、あと警察とか軍自体も市民に対してかなり酷い、無差別に殺すぐらいの感じのことをやったりしていることもあって、市民感情的にもなんかカルテルがちょっと人気だったりとかしている。

「郊外町村にはエスコバル(カルテルのボス)のために働く者が2000人おり、そのかなりの部分が警官狩りを生業としている若者だった。彼らは警官をひとり殺すたびに150万ペソを稼ぎ、負傷させるだけでも80万ペソになった。(P258)

 

なんというか、それで結局最後にエステバルは死んで、それによってコロンビアを制圧していたメデジン・カルテルが解体されて、他のカルテルも次第に弱体化していって、コロンビアが覇権を握る時代が終わって、現在のメキシコの大変な状況になる、みたいな流れと聞き、へーえ!という次第。

 

 

スーザン・ソンタグ/他者の苦痛へのまなざし

他者の苦痛へのまなざし

他者の苦痛をどうまなざすべきなのか、みたいなことを考えていたので、京都の恵文社で見つけたので買ってみたのだけど、基本的には「写真論」で、写真として我々に日々提供されている世界各地での戦争の様子を、どんな態度で見るべきなの、みたいな話だった感じがあったりなかったりするのだけど、他者の苦痛へのまなざしというのはいいタイトルだなあと。

面白かったのは、アメリカは自国民の死体の写真をメディアに載せるのは嫌がりながら、他国民に対してはそうではないという指摘。アフリカや、中東やボスニア、そういうところでの死者を載せることは厭わないと。へーえと。

真ん中らへんでジョルジュ・バタイユがずっと大事にとっていた写真に言及する箇所があり、それは凌遅刑と呼ばれる刑を受けている中国人の写真で、ジョン・ゾーンか何かのアルバムジャケットにも使われているものらしいのだけど、そこから私は、凌遅刑を調べ、「絶対にググってはいけない言葉」みたいなやつでいくつかのページを踏み、モントリオールかどこかで去年話題になったらしい四肢切断及び視姦みたいな凄惨な動画を見、メキシコの麻薬戦争の記事及び写真を見る、みたいな流れを取ってしまっていて、なんというか、それこそ、他者の苦痛へのまなざしとして一番下劣なところを存分に発揮してしまったらしかった。

苛まれ切断された死体の描写のほとんどは確かに性的な興味を喚起する。(…)魅力的な身体が暴力を受けるイメージはすべて、ある程度ポルノ的である。だが忌まわしいものもまた誘惑力をもつ。誰もが知るように、恐ろしい車の事故の現場を通り過ぎるさいに高速道路の交通の速度が落ちるのは好奇心のためばかりではない。それは、多くの場合、ぞっとするものを見たいという欲求のためである。そのような欲求を「病的」と呼ぶことは、それが稀な逸脱であることを示唆しているが、そのような光景に引きつけられるのは稀なことではなく、内的葛藤の絶え間ない源なのである。(P94)

 

 

マリオ・バルガス=リョサ/アンデスのリトゥーマ

アンデスのリトゥーマ

ペルー。これも恵文社で買ったもの。ガルシア=マルケス、ソンタグ、バルガス=リョサは著者名こそもちろん知っているしども人のも読んだことはあったけれど、買ったのは今まで聞いたことがなかったタイトルだったので、いい出会いを出来たと思いました。

 

結局、私はすっかりラテンアメリカ三昧だけれども、むごたらしい虐殺の歴史に惹かれているだけなのだろうか。こういうページが折られている。山岳部から解放を目指すセンデロ・ルミノソ(やたら強い)の手先の人たちが、虐殺を指揮する。

「死刑を執行するために、彼らはひざまずかされ、頭を井筒の上に載せられた。体を押さえつけられている間、住民たちは町の集会場のそばの建築現場から拾ってきた石で彼らの頭を砕いた。民兵はそれに加わらなかった。(…)自ら行動し、参加し、人民裁判を行う中で、アンダマルカの住民は自分たちのちからに気づくだろう。自分たちはもはや犠牲者ではないのだと気づいて、解放者になりはじめるのだ。(P83)

 

暴力が生まれる時、そこにはきっと多くの場合に交通の遮断があるのだろう。教訓かというとそんなわけではないけれども、ディスコミュニケーションのありようはぞっとするものだ。

彼女はいろいろなことを話し、訂正し、具体的に説明した。(…)しかし、質問者たちの表情や目を見る限り、完全に誤解していて、いくら説明しても分ってもらえそうにないと確信した。彼らはスペイン語でしゃべっているのに、私は中国語で答えているようなものだわ。(…)男は無表情な目で彼女を見つめ、抑揚のない声で独白のように説明した。「あなたは帝国主義とブルジョア国家の道具でしかないのに、そのことに気づいていない。その上、何を勘違いしたのか、自分が良心的な人間であり、ペルーの立派なサマリア人であると思い込んでいる。まさに典型的な例だ」「申し訳ないのですが」と彼女は言った。「おっしゃっている意味がよく分かりません」(P133)

 

そういう陰鬱な空気の中でも明るい材料はあって、隊員がリトゥーマ伍長に向かって延々と話し続けるかつての恋人のエピソードのあたりは、読んでいても悪くない心地だった。「え!!いま隊員めちゃくちゃ話してんのに伍長完全に無視!!??なのに話し続けるの!!??」みたいな喜びがあった。あと伍長が山津波に遭ったあたり、風景描写がすごくきれいだった。

それにしてもバルガス=リョサはどれ読んでも本当に面白い。技巧的なところが鼻につくし鼻白む感じもあるのだけど、まあ、ストーリーテラーっていうんでしょうけれど、すごいどんどこ読ませるなあと。リトゥーマはどうも『緑の家』とかにも登場するリョサおなじみの登場人物らしい。読んでいきたい。

 

 

アドルフォ・ビオイ=カサーレス/モレルの発明

モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

アルゼンチン。とても面白かった。先日少し話題になっていた3D写真のもっともっと先を行ったバージョンみたいなことが孤島で行われていた件。踊っている具合がとてもいい。あとうじうじしている感じがものすごくうじうじしていていい。

あの女に会いに行った。私の計画はこうだった、――例の岩のところで彼女を待つ。彼女が来てみると、私は放心したように夕陽を見つめている。驚いた彼女は、きっといぶかしく思うが、それもやがて好奇心へと変わってゆくはずだ。私が彼女同様に夕陽に取り憑かれていることに好感を持って、私の名を訪ねる、そうやってわれわれは友だちになる……(P44)

 

とても美しい場面。

心の準備ができたので、同時に作動するいくつかのカメラのスイッチを入れた。七日間が記録された。われながら上手に演技した、――よほど注意深い観客でなければ、私が闖入者であるとは気がつかないだろう。一所懸命準備したのだから当然の結果だ、――この二週間というもの、絶え間なくリハーサルを繰り返し、検討に検討を重ねた。演技のひとつひとつを倦むことなく繰り返した。フォスティーヌの言う言葉、彼女の問い、答えをすべて研究した。何度もそこへ私が巧みに言葉を差し挟むので、まるでフォスティーヌが私に答えているような具合になった。いつも彼女のあとを追いかけているわけではない。彼女の動作はすべて承知しているから、ときには彼女の前を歩くようにした。全体として、ふたりが、はなれては暮せぬ仲良しで、言葉を交わさなくても心の通じ合える仲に見えることが私の希望なのである。(P172)

 

 

カルロス・フエンテス/澄みわたる大地

澄みわたる大地 (セルバンテス賞コレクション)

現代企画室のセルバンテス賞コレクションから。ほぼ同じ日にやはりセルバンテス賞コレクションからセルヒオ・ピトル『愛のパレード』も買ったので、次はこれを読みたい。

メキシコ。詩人たち。旅する聴取者による数々のインタビュー。そのあたりだけなので何も深みを持ち得ない感想なのだけどボラーニョの『野生の探偵たち』と通じる部分があった。

しんどかった。なんだか、技巧がどうのこうのという以上に、そのいかにも文学的な感じのする仰々しい文章の連なりがけっこう耐えられないものがあり、あと登場人物が漫然と読んでいると誰が誰なのかわけがわからなくなることもあり、まあ、だらだらと読みましたみたいな感じになってしまった。

ちなみに冒頭はこんな感じ。

私の名はイスカ・シエンフエゴス。生まれも育ちもメキシコ・シティ。大したことじゃない。メキシコに悲劇などない。すべてが屈辱になる。屈辱、この血が竜舌蘭の刺のように私を突き刺す。屈辱、この狂気に麻痺した私の体が、あらゆる曙を凝血の色に染める。そして明日に向かって永遠に続く死への跳躍。遊びも行動も信仰も――運のいい日も厄日も、日ごと私は自分の暗い毛穴を眺める――、谷間に広がる大地の奥底に深く葬り去られた。(P8)

……しんどい。

1950年ごろのメキシコ。上流階級が連夜のパーティーで自分たちの社会的価値を値踏みしあう感じ、落ちぶれていくもの、上昇するもの、これは何カーストっていうのかわからないけれども、そういう様子のえげつなさと、虚しさ、そのあたりは面白かった。

 

 

上野清士/ラス・カサスへの道

ラス・カサスへの道 --500年後の〈新世界〉を歩く

吉祥寺の百年で買ったやつ。すごくよかった。だいぶワクワクして前のめりになったために一日で読んでしまった。

16世紀あたりに新世界にどんどこ入植していくスペイン人たちの原住民に対する暴虐を糾弾してがんばった聖職者ラス・カサスにまつわる土地を辿りながら、21世紀のその土地土地のあれこれの状況も重ねてあれこれ書いていく紀行文。著者は14年間グァテマラやメキシコで暮らしたジャーナリストの方とのことで、現状をこれ以上ないほど肌身で知っている人。時折り、ちょっと憑依してるというか物語にしてるなーという感じは目に付くのだけど、全体的にはすごく面白い。これがもっと様々な文献であるとかを用いてアクロバティックに織り込んでいくと、きっとゼーバルトみたいなことになるんだろうけれど、もっと軽やかで、もっと気ままなスタイルだった。

いろいろといいのだけど、ラス・カサスに対する評価、回心してアンチ虐殺になるまでそこに自身も加担していたことや、いざ回心したけど実際はそんなに効果を上げられていないんじゃないかみたいな疑問とか、そういうところがフラットでとてもいいし、妻子がありながらこういうことをけろっと書いているところも「いいのか!?」という感じでとてもいい。

途中、シエンフェゴス市郊外の団地に住むという女子大生を拾った。助手席に乗せ、それとなく当世女子大生気質などを聞きだす。キューバで車を持つことの利点は、日本では考えられないがガールハントが容易であるということ。時間がかぎられているから(?)、よこしまな心は捨てないといけないが、若い女の子たちを、その気になればよりどりで拾える。(P148)

いろんな土地の小説を読んでなんとなくできてきた歴史のあれこれが、何度も地図のページを行き来しながら読む紀行文のなかでなんとなくリアリティを持っていく感じが心地よかった。

 

 

今日はルイサ・バレンスエラ『武器の交換』を読んでいる。


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