フアン・パブロ・ビジャロボス/巣窟の祭典

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巣窟の祭典

フアン・ルルフォ(1917年)、カルロス・フエンテス(1928年)、セルヒオ・ピトル(1933年)と、メキシコ生まれの小説家の作品をここ1ヶ月ぐらい、特に国は意識してはいなかったけれど立て続けに読んでいて、ルルフォでは乾いた土地の埃っぽい匂いと農民たちのなんかどう見てもどん詰まりだよねという感じを、フエンテスやピトルでは社交界の人たちの片腹痛いスノッブさや凋落の悲哀みたいなものを目撃し、メキシコいろいろあって面白いねと読んでいたのだけど、今回読んだ『巣窟の祭典』は、大学でスペイン文学と併せてマーケティングを専攻していたフアン・パブロ・ビジャロボスさん、1973年生まれの若い作家のデビュー作と2作目を合わせた作品集だった。

2011年8月、それから2012年9月にスペインで出版されたものが2013年2月に邦訳されるこのスピード感はとても好ましいし頼もしいなと喜んだ次第。

 

表題作「巣窟の祭典」も次の「フツーの町で暮らしていたら」も、扱われている題材は麻薬戦争の惨たらしい殺戮や、家族の失踪や土地からの追放といった、べつだん楽しいものでも笑えるものでもないのだけど、それを語る調子は、どんな状況でも冗談を言っていないと気が済まないというような軽やかなもので、この軽さはこれまでラテンアメリカの小説で読んだことのない類のものだったので、新鮮だったし面白かった。「フツーの町で暮らしていたら」のある場面(それは特に目新しいものではないにせよ素晴らしく痛快で、「そうだ!それだ!そのとおりだ!」と無闇な快哉を叫びたくなる場面だった)から単純に思い出しただけだけど、前田司郎ぐらいの軽やかさがあって、べつだん、私が何かと闘っているわけではないにせよ、過酷だったり残酷だったりする現実と闘おうとするときにユーモアがそれに対抗するための強い武器になるのだよねと、再認識というか学んだというか、だからべつだん何かと闘っているわけでもないから学ぶも何もないのだけど、ユーモアっていいよねっていうところだった。ユーモア、軽さ。ヴォネガットのような。サローヤンのような。要は、すごく好ましかったということだった。

 

2篇いずれも、宮殿や土地に幽閉された少年が、アクロバティックな展開によって外の世界を見に行く物語だ。名前を変えたり、あるいは巡礼者の列に加わることによって。父親たちは、あまり息子たちに外の世界を見させたくないらしい。

「フツーの町で暮らしていたら」の父親が発する言葉がとてもいい。

 

「見たか?ラゴスと同じだ」

父は言った。世界を矮小化しようとする企みを暴露した。今や彼によると、あろうことか、ラ・チョーナが世界を代表していた。(…)

「何のために行くんだ?」

父は繰り返し僕らに言った。「全部同じだ。ラ・チョーナに行っただろ。どの町も一緒だ。大きいか、小さいか、汚いか、いくらかきれいか、でも、どれも同じだ」(P132)

 

あることが起き、基盤を揺るがされた父親を射抜く息子の言葉がとてもいい。

 

「こんなことあるはずがない」父は、僕らを迷いから覚まそうとあたふたした。

「どうしてだよ?」

「どうしてありえないの?父さん」

僕らはそういう国に住んでるんじゃなかったのか?いつも幻想的な素晴らしいことが起こる国じゃなかったのか?死者と会話する国だったんじゃなかったのか?ここはシュルエアリストの国だってみんな言ってたんじゃないのか?(P240)

 

「巣窟の祭典」はこういうトーン。

 

ニュースの最後で、男のリポーターが神妙な顔つきで安らかにお眠り下さいと言った。バカじゃないの。今この瞬間、彼女はトラのお腹の中でぐちゃぐちゃになっているっていうのに。その上お腹の中にいるだけではなくて、消化が終わったら、しまいにはトラのフンになるっていうのに。体もないのにどうやったら安らかに眠れるっていうんだ。もし安らかに眠れるとしたら、それは左足だけだろう。(P29)

 

とてもいい。


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