アレハンドロ・サンブラ/盆栽 / 木々の私生活
2013年9月21日
盆栽/木々の私生活 (EXLIBRIS)ここ一週間か二週間ほど忙しめの日々が続いているような気配があって、オムライス等の仕込みのペースが上がっていること、もっと言えばブッチャーへの肉の注文のペースが上がっていることがよく物語っているようなところがあり、電話をすれば、2キロとか1.5キロとかの肉塊をブッチャーはいつだって届けてくれる。私は太ることが今のところない体質なのでよくわからないけれども、女性の方であるとかが1キロ太ったとか2キロ太ったとかそういうことを言うのを聞くと、その赤々とした、あるいはミンチになった肉塊を思い出し、それはけっこうなところ、大きな変化であるということが実感される。ダイエットをしたい人は一度1キロとか2キロの肉塊を目で見て手で持ってみれば、きっとぞっとするだろうし、いけない、ちゃんとダイエットしなければいけない、という思いを強めることもできるだろう。ここ一週間か二週間ほど忙しめの日々が続いているような気配があって体についてもよく疲れるところが散見され、今は人的な状況によるアイドルタイムを設けているのだけど、その15時から18時までの3時間のあいだも、眠るばかりをしていて一日がすり減ってもったいない。今日もずっと眠っていた。
ここ一週間か二週間ほど、これは一週間ほどだろうか、『親密さ』の二人の男女が別々の時間に別々の場所で、それはともに飲食店で、アルバイトをする姿のことを何度か思い出した。ただ思い出すだけなのだけど、何度か思い出した。濱口竜介の新作『不気味なものの肌に触れる』は先日購入してダウンロードをしたのだけれどもまだ見ていない。LOADSHOWはとても楽しみなサイトではあるのだけど、ストリーミングで見られるといいのになと思う。1.6ギガの動画を落とすのはけっこう大変というか、時間が掛かる。
今日もその男女の、男はファミレスで、女はバーらしきところで働く姿を思い出しながら、もう一つ何かを思い出していたのだけど、何を思い出していたのか思い出そうとすると記憶がつっかえて思い出すことができなくなった。代わりに思い出したのはゼーバルトの、ロウストフトの描写だった。さびれた町の、かつて栄えたときの姿だった。都合のいいことに、12月に出来たばかりのそのスタバに行ったのは今日で二度目で、というふうに書き始められる昨冬に書かれた日記の中で引用していたので、それを読んで済ませるというインスタントなことを行った。晩年に焼身自殺を図った男からゼーバルトが聞いた、そのロウストフトの光栄の時代の描写を再度引用すると、慈善舞踏会の晩、むろん入場を許されるはずもない庶民たちが、とフレデリック・ファラーはゼーバルトに語った。百艘はくだらぬ小舟や艀に乗って埠頭の突端まで漕ぎだしていったのだと。そして波にたゆたいときには流れゆくその見物席から、上流階級の人々がオーケストラの音にあわせてくるりくるりと回るさまを、光を浴びて、初秋の霧に覆われた暗い海面の上にあたかも浮き上がっているかに見えるさまを眺めたのだった、というものだった。やはり、美しい情景だった。
ずっとラテンアメリカの小説を読んでいると、何を読んでもけっこう賑やかで、私はその賑やかさに魅了されていた節があるのだろうとも思っていたのだけど、先日読んだアレハンドロ・サンブラの『盆栽/木々の私生活』はまったく静かな小説で、その静けさはゼーバルトとも通じ合うようなたぐいのものだった。ポスト・ボラーニョ世代ということで、サンブラは1975年生まれの若い作家だけど、この二つの小説のたたずまいは本当に大好きなそれだった。特に表題作の「盆栽」は、裏表紙に「盆栽のように切り詰められたミニマルな語りから、過去と未来に広がる無限の時空間」とあるけれどわりと本当にそんな感じで、同じモチーフが幾度か繰り返されながら、静かに、ものすごく微かに、しかし確かに高まっていくようなところがあって、気がついたら息を止めながらページを繰っていた私は、どこかの場所で何かがあふれ、ほとんど泣きそうになっていたか、泣いていた。小腹が空いたのと、金を使いたくないなと思っていたことから入った騒々しいマクドナルドでの出来事だった。
フリオがエミリアについた最初の嘘は、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。読んだ本のことで嘘をつくことはあまりなかったが、あの二度目の夜、何かが始まりつつあることが、その何かがどれだけの期間続くにせよ大切なものになることが二人にわかったあの夜、フリオはくつろいだ調子の声で、ああ、プルーストは読んだことがある、十七歳の夏、キンテーロで、と言った。(…)
その同じ夜、エミリアはフリオに初めての嘘をつき、その嘘もまた、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。(…)つい去年のことよ、五ヶ月くらいかかった、だってほら、大学の授業で忙しくしてたから。それでも全七巻を読破してみようと思って、それがわたしの読書人生でいちばん大切な数か月になったの。(P22-23)
それを読みながらこの話題なら、私は嘘をつかないで済むと思って少し嬉しい気になった。ああ、プルーストは私も読んだよ。大学生のときに何年も掛けて、たしか三年ぐらいかな、読んだり、やめたり、他の本を読んだり、また他の本を読んだりしながら読んだ。しんどい思いもたくさんあったけれど、特に徹夜明けの電車に乗っているときとかに、朦朧とした頭で読んでいるとふいに何か力強いものが頭に吹き抜けてくるような感覚があって、そういう時おり訪れる瞬間を求めながらなんとか読みきったよ。どんな話だったかなんて一つも覚えていないけれどね。
それにしても、そのプルーストを巡る嘘のあとの、嘘に嘘を重ねるここのくだりは素晴らしくて、読んでいる方が気恥ずかしくなる。その気恥ずかしさは、なんというかとても好ましいものだった。気高さ、とでも言いたくなる気恥ずかしさだった。
それぞれを『失われた時を求めて』を読んだこと――というより読んでいないこと――へ結びつけていたあの打ち明けがたい秘密のせいで、二人はプルーストを読むのを後回しにしていた。二人とも、今回一緒に読むことが、まさしく待ち望んでいた再読であるかのように装わなくてはならなかったので、特に記憶に残りそうな数多い断章のどれかにさしかかると、声を上ずらせたり、いかにも勝手知ったる場面であるかのごとく、感情あらわに見つめ合ったりした。フリオに至っては、あるとき、今度こそプルーストを本当に読んでいる気がする、とまで言ってのけ、それに対しエミリアは、かすかに悲しげに手を握って応えるのだった。
彼らは聡明だったので、有名だとわかっているエピソードは飛ばして読んだ。みんなはここで感動してるから、自分は別のここで感動しよう、と。読み始める前、念には念をということで、『失われた時を求めて』を読んだ者にとって、その読書体験を振り返ることがいかに難しいかを確かめ合った。読んだあとでもまだ読みかけのように思える類の本ね、とエミリアが言った。いつまでも再読を続けることになる類の本さ、とフリオが言った。(P37)
これらの箇所だけだと、未熟でディレッタントでスノッブな感じの若者二人の鼻につく物語っぽい感じもするけれども、本当に美しく悲しく、素晴らしい短編だった。
ポスト・ボラーニョ世代、それこそあの素晴らしい短編集『通話』の最初の「センシニ」のような読後感をもたらした。それらはいずれも「私が読みながら涙を流した短編」という括りに入るものだった。
どちらも、本を読むこと、それから文章を書くことが自分をアイデンティファイする行為であると自覚する者にとっては、泣かずにはいられない小説なのかもしれない。
フリオはファミレスで働いた。エミリオはバーらしきところで働いた。二人は別々の電車に乗った。