10月
2013年10月26日
iOS7へのアップデートをしようと思って、以前やろうとしたらうまくいかなかったので特に気にしないまま過ごしていたのだけど、前日に人と話していた際にその話になり、パソコンにつないでやったよ、と言われたので、そういうやり方があるのか、と知り、それを実行するためにパソコンにiPhoneをつないでいざアップデートしようとしたところ、OS Mavericksというのが出て、それへのアップグレードが無償でできるよ、ということが知らされたのでそれも併せておこなったのが二日ほど前の話で、そうしてみると全然詳しくないので何がなんなのかうまくわかっていないのだけど私の使っているMacはMacBookAirはMBAは何かが、メモリーが?4GBのやつで、これまではあらゆるアプリを閉じているときの残りのメモリー?メモリーで合ってるんだよね、メモリーが2GBぐらいだったのだけど、アップグレードをしてみたら1GB未満で、chromeでも立ち上げた日には簡単に100MBを下回り、今見たら52.9MBという状況で、これはとても少ないように思えるのだけれどもそのあたりについてはいかがでしょうか、と誰に聞くわけでもなく聞いた。台風と前線の接近により一日中雨だった。前線というのが、ヤンボーマーボーの天気予報を見ていた時代から今に至るまで、なんのことかわからないでいる。27年ほど生きてみたけれど、いまだに、あるいはいよいよ、ますます、世界は未知で満ちている。それはそれで悪くないことだと思い、何か偉い経営者とかの話でも聞いてみた方がいいのではないかと今日丸善に行った際にそういった経営コーナー的なところに立ち寄って、どういう本があるのだろうか、何が今の私に導きの手を差し伸べてくれるのだろうかと本棚を眺め回していたのだけど、今の私は何を読んだらいわゆる「学び」であったり「気づき」であったりを得られるのかわからなくて、多分、学びや気づきという語に対してわざわざ鍵括弧を付けないでは済ませられない、「うへえ…」みたいな忌避感を持って臨む限り、そういったものは得られないのだろう。いやそんなこともないというか、そういう紋切り型とか思考停止的なものに対する警戒感はいつだって持っていたいというか、だってそうでしょう、学びとか気づきとか、言葉を侮辱するなというか、なんかこう、そういうのあるでしょう、と苛立ちが頭をもたげてくるのでこれっきりにしたいところなのだけど、だってそうでしょうと打つとshing02のどれかの曲を思い出す。それを聞いていたのは高校生の終わりの頃だったように思う。音楽や、たぶん特に音楽だと思うのだけど、音楽のことを考えるといつも高校生のときに戻るというか、高校生のときにそんなにライブに行っていたようにも思えないけれども、ああそれは高校生のときに行ったわ、みたいなことがよくあって、先だっても人にdownyのアルバムを貸したところから、そういえばdownyを見に新宿のロフトに行った夜があったということが思い出されたのだった。その夜はdownyとブルーハーブの2マンだった。ブルーハーブを、存在は知っていたのか、知らなかったのか、私の耳はまるで格好いいものとしては聞かなくて、ペラペラよく喋る、ぐらいに思っていたのだと思う。私は学ランを着てロフトの白と黒の格子の床、あれはステージがそうなんだっけ、フロアもそうなんだっけ、忘れた。格子の床。学ランを着て、鞄はどこかに置いて、私はそのライブを見たのだった。それを思い出した。それを先だって思い出したのだけど、一方で、先日人から「どんな映画が好きなんですか?」と問われたときには何も思い出さないということがあり、私はやや愕然としたというか、こうやって私の頭から固有名詞が一つずつ消えていくのだろうかという恐れのような感情を抱いた。昔であればぽんぽんぽんと何人もの映画監督、いくつもの作品タイトルが口をついたように思うのだけど、いま私は失語症に陥ったかのように、言葉を発することができないのだった。たぶん覚えやすいからなのだろう、アンゲロプロスという語は咄嗟に思いつくのだけど、それに続かない。運命のつくりかた?それも全然間違っていないのだけど、そんなにすぐに出すタイトルだっただろうか。どんどん、遠のいていく世界がある。かつての、ゴダールのどれかを見ている時に生徒より先に「感情教育!」と声をあげた私は、消えつつあるのか。それを惜しむ気持ちもあれば、それはそれでそういう時期であるという気持ちも一方であり、5年前、あるいは6年とか7年とかなのかな、それぐらい前の、大学生の時分の、見られる限り映画を見ようとしていた青年に「なあ信じられるか?5年か6年か7年後のお前は本屋行って著名な経営者の言葉を聞きたいとか言ってるんだぜ。蓮實とかゴダールとかメカスとか、いや、そういうのはそういうので全然欲してるんですけど、でも経営とかってどういうことなのかなとかってやっぱり読んでみたくて、みたいなことオドオドしながら言ってるんだぜ」と言ったとき、彼は何を思うのだろうか。「ジュノ・ディアスの『こうしてお前は彼女にフラれる』、フリオ・コルタサルの『かくも激しく甘きニカラグア』を読んだ。今日は経営本はいいのがわからないのでパスしてやっと届いたホルヘ・エドワーズの『ペルソナ・ノン・グラータ』を買った。」どうだろう、と私は5,6,7年前の青年に問うこともできる。まだ大丈夫そうだとも思わないか?まだ小説とか、うしろ二つは小説じゃないけど、なんかわかんないけど文化的なものに対する渇望というか熱心な接し方には変わりはないだろ?だったら経営の本とか読もうとしても、そのぐらいは許してやってもいいんじゃないか?現実との折り合いの付け方。悪くないんじゃない。それはそれで。そう問いたい。うん、まあ、そうかもね、と5,6,7年前の私だって答えてくれるだろうか。答えてしまっているだろうか。それで、だから本を読んでいる。ドミニカ、ニカラグア、そしてキューバ。私は勝手に中米めぐりをしているなと思い込んでいたのだけど、本来的には中央アメリカに該当するのはニカラグアだけで、西インド諸島を構成する大アンティル諸島を構成するキューバとドミニカは入らないらしい。広義の、ということにすれば入るとのことだった。今ウィキペディアが教えてくれた。ジュノ・ディアスはすこぶる面白かった。わりと本当に切ないじゃないか、と思いながら、結構のところ胸を締め付けられながら読んだ。その短編群の中では少し異質というか、子供時代の出来事が書かれている「インビエルノ」の、家族が狭いアパートに閉じ込められる閉塞感と、ある雪の夜の散歩の情景が悲しく美しかった。いや、どの短編もすごくよかった。フリオ・コルタサルは『石蹴り遊び』とかがたぶんとても有名なアルゼンチンの人だけどなぜか食わず嫌いというか読む気が起こらなくて、これはセルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』の舞台になっているニカラグアについてのエッセイというかそういった文章なので、ニカラグアという国への興味から読んだというか、夏休みに吉祥寺の古書店百年で買って、やっと読んだというところなのだけど、長く続いたソモサ王朝の独裁をサンディニスタ解放戦線が1979年とかに打倒した翌年、80年からコルタサルが死ぬ前年83年までに書かれてたぶんスペインとかの新聞に掲載された文章で構成されたニカラグアを応援しようぞという本なのだけど、ニカラグアですごいことが起こっているぜ、これはもうなんかすごいことだぜ、というトーンが、次第次第に暗く、けっこうやばいぜニカラグア、となっていく様が興味深いというか何かの推移を物語っている感じがして面白い。面白いとか書くとコルタサルから「ほらここにもファーストフード野郎」とか指された挙げ句に説教されそうだけど、それはいいとして、コルタサルは革命後のニカラグアをすごく賞賛していて、同時にカストロ率いる革命キューバに対しても肯定的な立場を取っているのだけど、革命後のキューバがやばい状況だったことはいくらか前に読んだレイナルド・アレナスの『夜になるまえに』でも描かれていたし、たぶん標準的な国際世論でも「あれはやばい」みたいな感じなんじゃないのかなとおもうのだけど、知らないけど、ニカラグアというかサンディニスタに対する評価というのはどういうものなのだろうか。歴史はそのあとにサンディニスタ大失敗、という結果になったことを教えてくれるけれど、それもこれもコルタサルが言うようにソモサ残党及びそれを支援するアメリカのちょっかいがなければ何かが美しくなされたのだろうか。それともキューバみたいにあれはやばいみたいなことになったのだろうか。コルタサルの文章を読んでいると、革命後にサンディニスタがおこなった、おこなおうとしていたことはとても素晴らしそうに見えるのだけど、そんなシンプルなものだったのだろうか。一方で、今日読み始めたホルヘ・エドワーズの『ペルソナ・ノン・グラータ』はチリ人の著者が外交官時代にチリ大使としてキューバに滞在した1979年末から数ヶ月のことが書かれているっぽいのだけど(これ間違えた。1970年12月から71年3月。だいぶ間違えた。)、ここで描かれるキューバはわりと「あれはやばい」寄りの感じっぽく、カストロは疲れた顔をして演説している。砂糖黍が目標の量取れなかったじゃないか!と国民に対して憤怒している。「そりゃ無理に決まってるだろ」みたいなことがアレナスの自伝にもあったような気がした。様々な人の視点から歴史を見るというのは面白そうですね。そういうこともあって、今日休憩時間に本を買ったあとに行ったコーヒー屋さんでは、コロンビアとニカラグアの二択だったので迷わずニカラグアのコーヒーを飲んだ。おいしかった。その前に古書市をやっているところに出くわしたので、そこで見つけた蓮實重彦の『反=日本語論』のハードカバーを買った。文庫では持っているということはお前もすでに知っているだろう。お前はその本をキャンパス内のサブウェイで読みながら、不覚にも涙を流して、まるで素晴らしい映画を見た時のような涙のこみ上げ方じゃないか!こんな泣き方は今まで読書でしたことがなかった!ビバ、蓮美!とか思って感激したのだったろう。俺は今でもそれを覚えていて、それが強く残っていて、だからわざわざ、必要もないのに今日また買ったんだよ。どうだろう、5,6,7年前の私、このことに免じて今の私を許してくれはしないだろうか。