11月
2013年11月9日
とても久しぶりにウディ・アレンの『ラジオ・デイズ』を見て、相変わらずとてもラブリーで好ましい映画だと、終始ニコニコとしながら画面に見入っていたのだけれども、この映画を初めて見たとき、私は滂沱してけっこうなところ動揺し狼狽したのだったと、それを思い出すと、あのときのあの状況はなんだったのだろうかと不思議にすら思うわけで、例えばラジオの夫婦で相談みたいなコーナーに両親が出演したらというシーンの、愛してます、それ以上どうしろと?という妻の言葉に、あるいは部屋で音楽を聞きながら踊る娘を父親と伯父が優しく見守り、一緒に踊り、コーラスを担当するあの親密さに、私は激しく感動したのだったけれど、今見てもそれらはとても好ましいシーンであることには変わりはないのだけれども、泣くということもせず、うろたえるということもなく、すんなりと、いいシーンだねで流れる。何もそれが惜しいわけではなく、ただあのときのその感動を思い出すだけだった。2005年の4月20日、その日はたぶん授業はない日で、だから私は昼間に家で映画を見て、多く泣き、そのあとにゼミに出席するために家を出たのだった。余韻を引きずりながら学校までチャリだか原付きだかで向かったのだった。それをただ思い出す。
そういったものごとを思い出していると、ふいに車で246を走っていたときの、なんでもないロードサイドの風景が思い出されて、その道を再び走りたくなる。大学時代の同居人が車を持っていたこともありしばしば運転する機会があったのだけど、そんなに多くあの道を走った記憶はないのだけれども、なぜだか、あの道を思い出す。どこに向かっていたのだろうか。車を走らせて映画館なりに行く理由もないし、今となっては目的も同乗者がどういった人たちだったのかもわからないけれども、あの道を走った。また走りたいと今わたしは思うけれど、レンタカーを借りて走ったとしても、同じような気分を経験することはないだろう。それはよく分かっている。何も取り返せないということはよく分かっている。ただ何か、今わたしは無性に、あの道をまた走りたいと思っている。具体的な記憶で言えば辻堂や江ノ島、そこから鎌倉への道の方がよほどあるけれども、もっと何か漠然とした走行を246で今、私はしたいと思っている。年末にでもおこなうだろうか。決してしないだろうということもよく分かっている。
この春頃から、ほとんど禁欲的とも言える姿勢でラテンアメリカの小説を読み続けてきて、そろそろ、今年の締めくくりとしての、そしてラテンアメリカ縛りのしめくくりとしての『2666』に突入しようと思っているのだけれども、まだそれを読み始めるには早いし、できればその読書は年末年始の休みの時期におこないたいと思っているのでまだ早いし、だからといって次に読みたいラテンアメリカの小説が今あるかといえば特に思い浮かばないということがあり、ここに来て大変な迷いが生じてしまっている。
最近はチリ人作家ホルヘ・エドワーズがキューバに代理大使としておもむいた3ヶ月を記した『ペルソナ・ノン・グラータ』を読み終えた。徹底した盗聴や誰が密告者なのかまるでわからないキューバ公安組織のえげつなさや、1971年という、アジェンデ政権発足後、そしてピノチェト及び軍部によるクーデター勃発以前の微妙な時期にチリ人が感じていたこれどうなるんだろうかなあ感、革命キューバの現状を見ていると社会主義路線とかいってもうまくやんないとこれ悲惨だよなあ感、ゆくゆくは血が流れることになるかもしれないよなあ感、フィデル・カストロの無神経さと繊細さ、無能さと有能さ、そういったところが見られて面白かった。特にキューバを去る直前にエドワーズとカストロのあいだでおこなわれた対話の緊迫感と、そしてそこにまさかの展開で生じる親密さは、素晴らしく読み応えがあった。
また、小説以外はラテンアメリカで縛ってはいないということもあり、夏前に買い、面白く読めないという理由で最初の方で放棄していたペーター=アンドレ・アルトの『カフカと映画』も読み終えた。これはカフカの叙述のスタイル等々に映画が激しく影響を及ぼしているということを各種資料から読み解く感じの批評だったのだけど、最後まで面白かったりたいして面白くなかったりしたのだけど、『城』とムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』の共通点を「驚き」と言って推測するくだりなんかは、何が驚きなのかもわからなかったし、そこをこじつけてみて何が生まれるのかもわからなかったりしたのだけど、カフカが身振りや手振りに執着して心理学的な要因を排した表層的な叙述をする、運動の力学を重視するみたいなところは「そうだよなー」みたいなところで面白かったのだけど、これを読んでいたら俄然、カフカを再び読みたくなったし、なんというか、動きのある小説、歩きまわる小説、身振りが見える小説を読みたくなり、それはカフカでもよかったし登場人物が動き続けるという意味ではドストエフスキーのどの作品でもよかったし、あるいは、読んでないからわからないけどローラン・ビネの『HHhH プラハ、1942年』はやはり読みたいし、スパイとか関係しそうだからきっと動きまわるだろうという推測も成り立っているし、また、スパイといえば最近買ったコンラッドの『密偵』も面白そうだし、と、要は締めの『2666』を前にして、いま私はラテンアメリカ外の小説をとても読みたくなってしまっているという事実があり、それにとても困惑している。困惑しているというか、読みたいぞ、というときめきを与えてくれる、まだ見ぬラテンアメリカ小説の選択肢がいま浮かばなくて、どうしたものかとなっている。先日古本屋で買ったボルヘスには予想通り手が伸びない。ボルヘスが私を拒絶しているのか、逆なのか。
そういった大変な迷いの中で今日は本屋に行き、フェルナンド・バジェホの『崖っぷち』を買った。これは松籟社の「想像するラテンアメリカ」シリーズの小説で、内容の良し悪しは当然知らないのだけどこのシリーズは敬遠していた。その理由は本当にたったひとつで、ハードカバーでなくてソフトカバーだからだった。やっぱりハードカバーでしょ、というところだった。
とは言え、そうも言っていられない状況になってしまった今、なってしまった今というか、本屋のラテンアメリカ文学コーナーを見ればもちろんまだ読んでいない小説はいくらでもあるのだけれども、どうにもプイグとかコルタサルとかフエンテスとかはそれぞれ一冊ずつは読んでいるけれどもそれ以上に読みたいとは今の気分は感じないし、現代企画室のラテンアメリカ文学選集はなんでだかジメッとしていそうなイメージで食指が動かされないし、と思っていたのだけど、いまふとラテンアメリカ文学選集のページを見たところ、「都会を離れニカラグアの解放ゲリラに身を投じた青年をまちうけたものは?果てしなく続く緑と、泥と、孤独の中で這いずり回る男たちの、想像もつかない地獄を描く。」という説明書きを見て、それとても面白そう!とにわかに活気づいた。オマル・カベサスという人の『山は果てしなき緑の草原ではなく』というタイトルのものだった。これ次いってみよう。また、その下にあったホセ・マリア・アルゲダスの『深い川』は夏に古本屋で買っていて、いまだ読む気が起きずに読んでいなかったのだけど、「アンデス山中で、白人に生まれながらインディオの間で育った少年の目に、先住民差別の現実はどう映ったか。待望久しいインディへニスモ文学の最高峰。」という説明書きを読んだら読んでみたい気になった。まだまだあるじゃないか、ラテンアメリカ、というのが今の偽りのない気持ちだ。簡単だ。
今日はまた、それと同時に、もう『2666』に向けていくしかないよね、みたいな気持ちから、『2666』はメキシコが主な舞台と聞いているので、メキシコの歴史をよく知っていた方がいいのかなというところでケンブリッジ版世界各国史シリーズ『メキシコの歴史』を買った。読み始めたのだけど、革命期のあたりのことがよく知りたくて、というかフエンテスの『澄みわたる大地』に挟まっていた年表でその時分の歴史を見たときに、「なんだこれは、何が起きているのかさっぱりわからない!」となったこともあり(セルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』のニカラグアなんかは、なんとなく動きというか色々な勢力の移り変わりがシンプルなような気がして(もしかしたら複雑なのかもしれないけれども)「なーる」とか思えていたので、メキシコの「年表を見てもいったい何がどうなっているのか、誰が何をしたいのかまるでわからない」という感じは衝撃的ですらあった)、革命期のあたりの歴史をよく知りたいなと思って買ったのだけど、読み始めたのだけど、紀元前8000年ぐらいのところから記述が始まり、今はやっと西暦1000年ぐらい。各地でいろいろな文明ができていたらしい、ということが勉強できました。勉強できましたとかちょっと斜に構えた薄笑いの感じで書いているけれども、なんでだか妙に胸をときめかせながら読んでいる。文明!みたいな気分だ。
これを読んでもうちょっと最近のことにフォーカスして知りたいなと思ったら鈴木康久という方が著している『メキシコ現代史』というのがあるということが今わかったので、そちらを読んでみようと思う。(それにしてもこの『メキシコ現代史』、Amazonで見たらフォーマットが2つあって、一つは3150円のやつ、もう一つは1200円のやつで、後者をクリックしてみると【ハ゛ーケ゛ンフ゛ック】というふうになっているのだけど、こういう割引の扱いができたこと自体が「へー」なんだけど、それ以上にこの綴りのいびつさがなんかもういいのかAmazonという感じでソワソワさせる。というところでもういいだろと思ってその【ハ゛ーケ゛ンフ゛ック】のやつを今注文した)そういった下調べをして「よし、メキシコ」みたいな武装モードになっていざ『2666』読んでみたら、まったく勉強必要なかった、みたいなことになったらなったで面白い。
メキシコ……
つい先日の朝、テキーラの瓶を見ながら彼女がつぶやいた。「プロダクトインメキシコ」 私は、メキシコ…と思いiPodから流していた音楽を変えた。それはメキシコ、メキシコ、と歌っていた。それを聞いた彼女は、「あの映画のやつみたい、黒人の奴隷の人と歯医者が組んで懸賞金を狙う…」と言った。メキシコ!私は思った。それはまさに、その黒人の奴隷の人と歯医者が組んで懸賞金を狙う映画を作ったタランティーノの『デス・プルーフ』のサントラから流した曲だった。たった一曲で映画作家が浮かび上がるというこの尋常ならざる事態に私はおののき打ち震えながら、あの、六本木で友人と見た『グラインドハウス』の上映、細い足が振り落とされた次の刹那に起こった映画館中に響き渡る拍手を思い出した。あれは、私の映画体験というか映画館体験において最も幸福な時間だった。ブラボー、ブラボーと、私は他の客と一緒に手を打ち鳴らしながら、流れ続ける涙を頬に感じながら、胸中で叫んだのだった。そしてまた、渋谷の映画館で見た『デス・プルーフ』のことも。二度目の鑑賞とあって余裕もあった私は、このバカ素晴らしい映画をバカ楽しく見ようとフロントでビールを買って臨んだ。そのビールが予告編が終わるまでに飲み終えられたこと。あるいはまた、同居人と海老名のシネコンに行って見た三度目のそれ。夜の死んだショッピングモール。『デス・プルーフ』の上映にまつわる様々な場面を私は思い出し、それは私をシンプルに幸せな気分にさせた。何かに熱狂すること。熱狂ということの喜びと大切さを今、私は『デス・プルーフ』の記憶を通じて、あるいは何時間も編み物をし続ける、暇があれば編み物本を読み編み図を見て何かを考えこむ、YouTubeで編み物動画をサーフィンする彼女の姿を通じて、あるいは『2666』に向けて足を踏み出そうとする、躊躇する、武者震いする自分の姿を見て、改めて思う。ちょっと読む前から『2666』に期待し過ぎているというか神格化し過ぎている気がする。よくない。