11月
2013年11月29日
どうかしたのだろうかという小学生のように、私は11月下旬の今でも半袖ハーフパンツ姿で仕事をおこなっており、多くの方に「どうかしましたか?」と尋ねられているのだけれども、なんとなくその姿をやめられないでここまで来てしまった以上、寒くないといえば嘘にはなるけれども、ハーフパンツはいつ長ズボンにしてもいいのだけど長袖は執拗にまくらなければいけないので面倒であり、半袖でいける以上は行きたいのだけど、今日はどうにもその格好では寒さがきつく、少し間があいたらパーカーを羽織っていた。ここまで来てしまった以上、11月中はその姿で、と決めていたところをくじかれた格好だ。別に長袖長ズボンになっても構いはしないのだけれども、明日もきっととりあえずこの格好で店に向かう。
寒さはいくつかの物事に影響を与えるらしく、ここ10日間ぐらい、ガスコンロが補助なしにはつかなくなった。補助なしにというのは、ガスは出るからで、ライターを着火口というのか、火の吹くところにもっていき、ガスを出し、ボッ、となって手に炎が触れ、引く、ということをおこなっていたのだけど先日彼女が機転を利かせてチャッカマンを買ってきてくれたので今では楽につけられるようになった。ライターでつけることの最大のデメリットは、私の(直立時の)ライターに関する手癖が「火をつけたらすぐさまポッケにしまう」であるということで、何度もポッケにライターを入れ、次に着火するときに「あ、また」となってポッケから出さなければいけなくなった。悪癖だった。寒さのせいなのかはわからないけれどもそういう状態にガスコンロがなっていて、でもそれは終日の症状ではなく、店全体があたたまってくると、自発的に付くようになる。どういうことなのだろうか。それと関係があるかどうかは別として、ここのところiPhoneが残り20%ぐらいの電池の状態で触りだしたら急に消えて、再度電源をつけると「電池もうないですよ~」という人をバカにしたようなメッセージが出る、ということがいくらかある。今さっきもそうなった。33%だった。冬は世界をおかしくする。そういえば今年はまだなっていないけれど、去年の冬、パソコンになかなか充電できないことがあった。いくらあのケーブルというのかあれをさしても緑の充電し始めましたよライトがともらない。難儀した。今年はまだなっていない。
充電がどうとか、ガスコンロの火がつかないとか、そういう不便さを私は不便としてここに挙げたけれども、昨日読み始めたオマル・カベサスの『山は果てしなき緑の草原ではなく』を読んでいると、まあ、サンディニスタ解放戦線の戦士として山中でゲリラ活動をおこなっていたオマル君と比べたら、私の不便なんていうのは取るに足らないものなんだよな、オマル君たちフレンテの戦士たちを見習って、私もここはいっちょ、一所懸命がんばって生きるぞ、みたいな気になることはこれっぽっちもないのだけれども、私のこのぬくぬくとした生活はそれでよいとして、オマル君たちの活動はまた、非常に過酷で大変だったのだなあ、ということを思う。なお、「フレンテ」と知ったような言い方をしたけれども、そういう言い方はこの本で知ったばかりだった。Frente Sandinista de Liberación Nacionalのフレンテとのことだった。意味はわからない。戦線かな。
それはそれとして、この小説は小説というのかもわからないけれども、高校卒業後にフレンテに加入したオマル君がそのあと山中に行き、がんばった、というまったくの実体験を「俺はさ、あのときさ」みたいなトーンで語っていくもので、「君も今にわかるよ」みたいな書き方もたまに出てきて、書いているのか、何かの語りを採録したのかよくわからないけれど、たぶん書いたものだと思うのだけど、とりあえずなんにせよ、サンディニスタ解放戦線の人たちが打倒ソモサを目指してがんばっている状況がとてもよくわかって、すごく興味深い。献辞にも名のあるセルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』の記憶を手繰り寄せながら読んでいくとなお面白い。そっか、こういう人たちがあの酷い名前の兵士、マンコ・カパックなりなんなりだったわけだ、というあんばいで面白い。国家警備隊の手によって火山に落とされた兵士の話とか、どちらにも出てきて面白い。
昨日は、だから、休みだったので、よく寝て、起きて、本を読んで、うたた寝して、起きて、本を読んで、映画を見て、寝て、起きて、映画を見て、本を読んで、というような暮らしだったのだけど、起きたのが13時で、たしか21時ぐらいに一度寝てしまって起きて24時で、そのときの私の気分はひどいものだった。たった8時間しか私は活動できないのか、というバイタリティの低さみたいなもの、生きることに対する脆弱性のようなものをひどく感じ、気が滅入った。普段は10時前に起きて26時ごろに寝るような暮らしだったはずだから、16時間だから、その半分、8時間。なんてバカみたいなんだとひどく憤り、負けてなるものか、ニカラグアの山中でがんばっているオマル君のように私もがんばるぞ、という気には一つもならなかったけれども、さすがに惜しいという気のため24時から28時までは起きることにして映画を見たりした。
昨日読み終えた本。フェルナンド・バジェホ『崖っぷち』
昨日見終えた映画。ポール・トーマス・アンダーソン『ザ・マスター』、ヴェルナー・ヘルツォーク『ノスフェラトゥ』、オリヴィエ・アサイヤス『カルロス 第1部 野望篇』
『ザ・マスター』はホアキン・フェニックスの演技がとてもよかったです。あとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技もとてもよかったです。絶えず攻撃にさらされるカルト宗教のマスターのフィリップさんが批判や非難に対してけっこうナイーブというか短気なところ、その脆弱性。誰よりもその宗教の力を信じているのは妻なんじゃないかというあの眼差しの強さ、家族でちっちゃく盛り上がる心もとなさ、そういったものがいい具合だった。
『ノスフェラトゥ』もまた「マスター」と呼ばれる男の話だった。ムルナウのやつは見たことがないのだけど、ヘルツォークはきっと景色を撮ることが好きなんだろうなと思いました。とても壮大でした。ネズミの大群がなんせすごかったです。広場で、たくさんの棺を運ぶ黒服の男たちの列を捉えるロングショットも格好良かった。その広場で人々が焚き火をしたりラッパを吹いたりバイオリンを弾いたり踊ったりしている中を白い顔した奥さんが練り歩くくだりもよかった。ラッパとかバイオリンとかの音楽はオフで、荘厳な雰囲気のBGMが流れているところがまた好ましかった。それまで弱々しい人だった奥さんがいつからか気丈で行動の人になるところもよかった。ペストは大変そうだったので来年はカミュの『ペスト』を読んでみたい。
『カルロス』は、アサイヤスは多分見るの初めてで、ずいぶん前、たぶん10年とか前に読んだ、10年にはなってないと思うけれども大学生のときに読んだ、下北のミスドで読んだ、梅本洋一の本でけっこう触れられていて(人違いでなければ)、見てみたいと思いながら見ないままここまで来てしまったのだけど、初めて見るアサイヤスは格好良かった。多言語が行き交う映画は楽しい。オマル君もがんばってるけど、カルロスも負けず劣らずがんばってるなーと思いました。抵抗の時なんでしょうか。週末に店で山崎樹一郎の上映会があり、新作のドキュメンタリー『つづきのヴォイス』が一揆の話なので、今は抵抗の時なので、楽しみです。見ている途中でビールを飲みたくなり、一時停止にしてビールを取ってきて再開させたら1分もしないうちに映画が終わったのでびっくりしました。2部も楽しみです。
『崖っぷち』はコロンビアの作家のバジェホさんの小説で、宗教や女性や国家、というか世界に対してありったけの罵詈雑言を吐き散らすような語りの小説で、まるで痛快という感じではなく、呪詛の言葉を延々と聞かされるこっちの身にもなってよ、という気にもなってくるのだけど、そのほとばしる憤怒の中でもおばあちゃんを筆頭に、あるいは死んでいく父と弟への愛情は隠さないあたりがなんだか健気で、切なくもなった。しばしば「いま、これを書いていること」への言及があって、特に植字工のお姉さんに向けたものが2箇所あったけれども、そういうあたりも面白かった。
理性の曇ったデマゴーグたちが「レイシスト」のレッテルを貼りかねないたった今の憂鬱な話題を終わらせるためにはっきりさせておこう。おれがニューヨークの黒人ジャンキーが憎いのは、連中が黒人であるからでもジャンキーであるからでもニューヨーク出身であるからでもない。連中の人間としての存在のためだ。ああいう奴らに存在する権利はない。少なくとも社会保障制度のおかげで生きている限り、しかもそのあいだおれたちコロンビア人が、寛大なるコロンビアによって与えられた恩恵のおかげであのクソの街で便器掃除をしなければならない限り、ああいう奴らに存在する権利はない。植字工のお姉さん。パラグラフや単語をひとつも削除しないでくれたまえ。(P188)
なんだか引用した箇所はそう面白くもなかったのだけれども、痛快ということもないけれども、全体の罵詈雑言はやっぱり、今あらためてパラパラと読んでいたら面白いというか気分がいいというか、気分はぜんぜんよくはないのだけど、よくもまあそこまで言うというところを突っ走っていて迫力がある。
いま『フェルナンド・バジェホ』で検索した中で2つ見た書評というか感想のブログで、ともにトーマス・ベルンハルトの名前が出ていた。ベルンハルトも罵倒芸とのことだった。『消去』はたしか、大学時代の同居人が読んでいた。罵倒芸だったのか。なんとなく納得する組み合わせだった。これもあれだったら来年読もう。来年。全部来年。今年はもう終わり。