読書感想文 佐々木敦/シチュエーションズ 「以後」をめぐって

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シチュエーションズ 「以後」をめぐって

「より時評的で状況論的な内容を想定していた」本書の元になった連載の「その後の何もかもを方向づけ」ることになったという「冒頭に据えた話題」、「新潮」2012年4月号を僕は持っている。それは本書の冒頭で扱われた特集「震災は あなたの<何>を変えましたか? 震災後、あなたは<何>を読みましたか?」を読みたくて買ったのではなく、やはり本書でものちに取り上げられた柴崎友香の「わたしがいなかった街」でを読みたくて買った。文芸誌を開く機会はめったにないので、珍しいことだった。

 

「わたしがいなかった街で」は「度し難く素晴らし」く、そのラストは「ほとんど厳粛ともいえるような美しさ」だったと、かつて書いた感想文にあるから、よっぽどよかったのだろうし、確かに、よっぽどよかったのだと記憶している。ただこの小説を読みながら本書が記すように「「以後」に書かれた、しかし「以前」を舞台とする、すぐれた「以後の小説」である」などということは思いもつかず、「テレビやiPhoneの液晶画面が、地理や時間を超越した世界の入り口というか裂け目というか、覗き込んではいけないぽっかりと開いた深い深い穴のように機能して、クローネンバーグの『ビデオローム』や黒沢清の『回路』や、鈴木光司/中田秀夫の『リング』に連なるような、ほとんどホラーのような結構を小説に与えている。今にも貞子が這いでてきそうな予感がつきまとう」と、のんきに、だけどしっかりと感動というか、怖気を感じていたらしい。

のんきに、という言葉がいま漏れたことが肝かも知れない。

 

ところでこの「新潮」をいま見てみると、巻頭に全文掲載された「わたしがいなかった街で」のページにたくさんの折り目が付けられていて、それを見るだけでも楽しく読んだということが伝わってくるのだけれども、そこからはだいぶ離れたところに1ページだけ折られている。それが先の震災アンケート企画の、これも本書で何度か触れられる岡田利規のところで、僕はこれを、けっこうな驚きを持って読んだ。「僕はかなり変わったと思う」というタイトルに続き、「フィクションを作る想像力を欲しいと思うようになった」と書きだされる短い文章を読みながら、それまでの岡田利規=チェルフィッチュを大好きだった僕はおおいに驚き、そして「この先に岡田利規という人はいったい何を見せてくれるのだろう」と、興味とともに、これまで僕が好きだったチェルフィッチュの何かがそれによって損なわれることにはならないか、と、不安めいた、ソワソワした気持ちを持ったことを覚えている。そのソワソワを確かめに、「あなたは「予言=噂」に対して、どのように振る舞うのか?あなたは迫りくる「破滅」を前にして、何が出来るのか?あなたは「村」を出て行くべきなのだろうか?それともここに留まるべきなのか?この作品で岡田利規は、これらの問いを問うこと、このような問いを観客と共有すること、それしかしていない。これは極論ではないと思う。私はむしろ、彼が『現在地』という「フィクション」を使って、ただそれだけしかしようとしなかったということに、強く感銘を受けたのだった。もしかするとここには、問い自体よりも重要な何かが顔を覗かせているのではないか?(P115)」と評されている、『現在地』を見に、僕は博多まで行ったのだった。

「以後」の表現というものをことさらに意識したことがなかったので比較する材料も乏しいのだけど、僕が目撃したそういったもののなかで、『現在地』ほどにアクチュアルで、倫理的なものはなかったように思った。岡山に住んでいると移住されてきた方と出会う機会がいくらもあり、それも念頭にあったのだけれども、「どちらの立場もあるような描き方がされていて、これは、熊本に移住したという岡田利規にとっても振れ幅というか色々な立場の相違が明確に見える部分なんだろうなと思った。というか、怖ろしいまでの冷徹さというか冷静さで移住というものについて考えているんだろうなと思った。どんな情緒にも流されないこの感じは、凄まじいと思った。なんだかものすごいものを見た気がした」と僕は書いていて、要は「岡田さん残酷なまでにフェアだな~」という感嘆だったのだけど、その公正さはここで言われる「これらの問いを問うこと、このような問いを観客と共有すること」の結果だったのだろう。

 

ところで先ほど「アクチュアル」という語を使ったし、僕はわりとアクチュアルという語がけっこう好きで、無防備に使っていたのだが、僕にとって本書のハイライトを成した、「当事者とは誰か?」と題される第三章はとてもエキサイティングで、特に「「アクチュアリティ」と「わたしたち」」の項には瞠目させられた。

自身の「「当事者性」を問うことを止められ」ず、しかし「そこに宿る「後ろめたさ」や疚しさ、やるせなさに堪え切れなくなり、「わたし」を「わたしたち」へと昇格させ、あの魔法、「あの「個をいち早く捨てる術」によって「アクチュアリティ」を獲得したと思い込もうとするのではあるまいか。(P185)」

自信のない「わたし」をかなぐり捨てて「わたしたち」に成り代わり、初めて担保される「アクチュアリティ」。そして「ほとんど一種のマジック・ワードと化している」という「アクチュアリティ」の表明は、「今ここにある「問題」から目を背けない覚悟や認識や勇気から、甘えた協調の構造や危険な他者排除へと、たやすく転じかねないもので(P180)」であり、「いまや或る絶対的な正しさによって保証されているパフォーマンスであり、真っ向から批判することがどうにも許されないような欺瞞(P56)」を抱えている、と著者は言っているのだと思っているのだけれども、この「或る絶対的な正しさ」という点が、本当に難しく、おそろしい。

その出来事について、あるいはそれ「以後」についてとくだん考えない者ですら、あるいはそういう者であればあるほど、何か言い訳や、スタンスの表明をしなくてはならないかのような圧力。僕自身も西日本に住んでいる身であり、極めて「当事者性」の薄い人間にとって、なんと居心地の悪い時期だったのだろうか。「わたしがいなかった街で」のかつての感想を引いたときに「のんきに」と書いたけれども、ここで「のんきに」とわざわざ反省させ書かせるもの、それがおそろしい。

 

今回これを書くために件の「新潮」をめくっていて、まさに先の企画の岡田利規の文章の次に、田中慎弥の文章が載っているのを見つけ、初めて読んだ。タイトルは「逃げ足」だ。書き出しは「西日本に住んでいると、震災の影響を肌身に感じることはほとんどない」とある。「書けばいいだけのことだ。震災を直接取り込んでも取り込まなくてもいい」「書き手はどんな視点で書いてもいいし、読み手はそれぞれの視点で読めばいい。そこに何か気高いものを求めたりせず、書くことと読むことによって作品を味わい尽くせばいいのだ」そう書く一方で、こんな言葉が見られる。僕は心底ぞっとした。「被災地に行ったこともない」「どちらにしろ現場を見るべきだ、お前はどうしてそれをやろうとしないのだ、と訊かれれば何も言えない」「私のような臆病者」「うしろ指を差される。逃げながら小説を書く」……

何かを書き、あるいは表現し、それをパブリックにする表現者と言われる人たちにとって、この時期は、こんなにも居心地が悪かったのか、ということをまざまざと思い知らされた。

「震災の影響を肌身に感じることはほとんどない」それで完了であるはずなのに、なのに……と、後ろ暗い気分になって、彼女とこの話題について色々と話した夜があったのだけど、話せば話すほど、2011年に端を発した出来事というのは異常な大きさで暮らしというか、何かを覆っているのだということがよく知れた。考えていないものも、なぜ考えないのかを自身に問わなければいけないこの感じ。

 

野蛮になること。本書の一章で「「失語」を回避するためには、一見「野蛮」とは思えないような、新しい「野蛮」が要請されているのではないか。このことを今後、時間を掛けて考えていきたい(P24)」とあるが、その「新しい「野蛮」」とは、つまるところこういうことだろうか。

それはつまり、「短慮」「後ろめたさ」「みっともなさ」「不謹慎さ」「非当事者性」「距離」そういったもろもろを「縮めようとするのではなく」、「丸ごと受け止めようと」し、「アクチュアリティ」を標榜するためだけに「わたしたち」を召喚させることなく、「「わたし」へと、ありうる限りの勇気を奮って、ふたたび立ち戻ること」

このあたりに僕はわりと素直に感動した。そっくりそのままひっくり返してみせること。

 

本書で取り上げられている作品で、見た/読んだものは上述したぐらいのものしかないけれども、どれもその「わたし」で留まり続けようとした、勇気ある作品たちなのかもしれない。

より時評的な雰囲気になっていったためか、取り上げられる題材に対する興味によるのか、僕のなかでたいへん盛り上がった、本書のハイライトだなと思った第三章から先は僕にとってはテンションダウンした感じがあったのだけれども、「わたし」なりの興味に従って本書に取り上げられている作品を見る/読む機会があったら(阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』はぜひ読みたい)、そのつど本書を開き直してみたい。

 

ところでこれは去年末にB&Bで「こんなの出てたんだ」となって買ったのだけど、思い返せば一昨年の末の帰省のときも、あれは蔦屋書店だったけれど、「あ、こんなの出てたんだ」となって『批評時空間』を買ったんだった。年末の東京は佐々木敦を買いたくなるらしい。

 


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