読書感想文 保坂和志/未明の闘争

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未明の闘争

巻末にある「引用と参考文献」のところの最後に、まるで思い出して付け足したみたいな軽さで「『カルメンという名の女』ゴダール」とあり、作中で明示的に引用または参照されていた記憶は僕にはないのだけど、それはただの思い違いでどこかで確かに名指されていたのかもしれないが、少なくとも僕の記憶にはなく、では一体どこにその刻印が、と考えてみると、『カルメンという名の女』は見ていないか、あるいは見たとしても見たこと自体を忘れるほどに覚えていないから見ていないのと同じことで(しかし本当に同じことだと言い切れるか)、いずれにせよイメージでしか考えられはしないのだけど、村中鳴海が「あたしがあたしなのは、あたしが一生懸命あたしだからでしょ」と苦しげに独白するくだり、そして数ページにわたって羅列されるかつての村中鳴海の声、というか村中鳴海を形作るイメージ全体をカルメンから借りてきたのだろうと思うのだが、そんなのはただの憶測だし、苦しげな独白はむしろゴダールではなくジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』のヴェロニカを想起させ、それは僕の中ではとても美しいシーンとして記憶されているものだけど、何年も前にDVDボックスで買ったもののなかなか見る気の起きない、見る覚悟の出ない、ゴダールの『映画史』の2Aの部だったか2Bの部だったかを年末ふいに見たのだった。それは批評家のセルジュ・ダネーとゴダールの噛み合っているようには見えない対話があったり、『狩人の夜』の映像とボードレールの詩を朗読するジュリー・デルピーの映像と声が途方もなく美しくオーバーラップしたりするやつで、一つ一つが圧倒的にかっこうよく、と思いながらも、僕はどんどん眠気に誘い込まれていくのだった。

この小説を僕より先に読んでいた彼女は、とにかく面白いのだけど読んでいると眠くなると言っており、僕は僕で眠くなりはしなかったのだけど読んでいると頭がじんじんと疲れてくるからあまり長い時間向かい続けることはできず、容量以上の時間それに向き合おうとしても頭の中でイメージが生成されなくなって漫然と文字を追うだけになるから中止して、彼女が言っていた眠くなるということと僕の疲れは同じことだった。彼女は「眠くなる」に続けてこうも言った。「描かれたすべての光景を覚えている」

年末、『映画史』と同じ時期に見たミア・ハンセン=ラブの『あの夏の子供たち』は素晴らしくよくて、監督自身もインタビューで「思い出」という言葉を使っていたが、前半のぶつ切りとも言えるような小刻みさで並べられる数々のシーンが、後半になってまさしく、見るものにとっても思い出となり、あんなことがあって、今こうある、ということがありありと感じられ、感じられるというよりは数十分前に見たシーンが思い出として迫ってくるようなところがありびっくりしたのだけど、この小説も同じようなところがあり、確かに、それまでに読んだ多くの光景が記憶に似た感触のものとして自分の中に堆積されていく。一つ一つの風景、あるいは運動が、たしかに、明白に、そこに、あった、という感じがある。ただしこの小説においては、『あの夏の子供たち』の思い出生成のあり方とは真逆で、しつこいというのか、粘り強いというのか、とにかく丁寧に積み重ねられる描写を、こちらも丁寧に追い、イメージしていくことによって、初めて記憶として我が物になっていく。だからとても疲れる。とにかく描写が充実というか、正確というか、手抜きがない。試しに冒頭の「ビックリガードの五叉路」を読みながら、書かれている通りに地図を書いてみてそれを実際の地図と照らし合わせてみたのだけど、僕が書いた地図はほぼ完璧にそれだった。言葉を用いてこれをやるのってけっこうすごいことだ。

 

それにしたって、話は変わるが、こんなにも野蛮な小説は他にどれだけあるのだろうと思ってしまう。野蛮な小説、と思ってここ一、二年で読んだものを考えるとウラジーミル・ソローキンの『青い脂』が思い出されるし、これも相当の代物だったと記憶しているけれど、それだって『未明の闘争』を読んでみればずっと行儀よくおさまっているように見える。

一年ぐらい前、栗原裕一郎という評論家のブログで、人称操作の小説が流行っている、その元を辿ると保坂和志がどうやらいるらしい、ということが書かれているのを読んで[1]、確かに『小説の自由』を始めとする小説論を大変な興奮のもとで読んできた身としても、あれはとても影響を受けたくなる、というかもっと言えばやってみたくなる、パクってみたくなる、と思ったのだけど、そのブログで挙げられていた作家たち(山下澄人や滝口悠生)の作品を読んだことがないのでなんともわからないけれども、果たして『未明の闘争』に比肩するような野蛮な小説が続々と生まれてきているのだろうか。生まれてきているのだとしたら、とても明るい。あるいは暗い。

しかし何がそう野蛮なのか、何にそう野蛮さを感じたのか、考えてみると、この小説のカメラは悠々と、そしてジェットコースターのようにグワングワンと時間と視点を変えていき(特に「わーびっくりした」となったのはなぜかP251の「~というのがおやじさんの信念だ。そのおやじさんに私は、「ピナツボ火山って去年だったんですよね?」と食い下がっても~」のところだった)、あるいは「私」をほったらかしにして勝手に残り、暮れの空の変化に見とれたり、富士山を中心に西へ東へ行ってみたり、挙げ句ジャマイカはキングストンまでひとっ飛びしてみたり、トム・ウェイツに導かれてゴダールの画面の中に入ったり(『カルメンという名の女』はさっき調べてみたらP472から始まる、無主語でいびつな異様な一連のベッドシーンというかそういうシーンのところだった。村中鳴海じゃなかった)、とうとう「私」が過去の自分と海で出くわしたり、20ページにもわたって山下公園の人々を捉え続けたり(ここはもう本当にとんでもない)、何度もいびつに使われる「私は」によって「私」以外へ圧倒的に開かれていたり、「私のところに来る」でなく「私のところに行く」という「私」の誰でもなさというかゆるみというかが何度も強調されたり、「私」の眠りのさなかに小林ひかるとアキちゃんが会話し続けたり、とにかく「私」から離れよう、離れようとする。

思えば、『小説の自由』の途中、途中といってもわりと前半で唐突に挟まれる「その人といっても私といっても同じことで」と始められる「桜の開花は目前に迫っていた」という掌編が、その野蛮の実践の始まりだったのだと思うのだけど、それを読んだ当初、僕は、これが実践編ならしんどいかもしれない、と思ったものだったが、その延長というか結実としての『未明の闘争』は、それは持続故なのか、それとも単に強度が増したという話なのか、かつて感じたしんどさはもはやどこにもなかった。

 

そんなことではない。というか、今挙げてきたようなそれぞれこそがそんなことではあるである気もするのだけど、「私」がどうとか、カメラがどうとか、そういう細かいことではないと思う。この野蛮さの根源は。この野蛮さの根源は、それは彼女にとって眠気になり、僕にとって疲れになったもので、それはそういった幾重もの時間・視点が折り重なりながら、その絵巻が、たった一枚のレイヤー上に描かれているというところにあるのだと思う。ここには、500ページを通して、主となる部分、従となる部分と言えばいいのか、メイン、サブ、と言えばいいのか、そういう陰影、奥行き、遠近のようなものが一切なくて、すべての声がまったく同じ強度、テンションで歌われ、響き渡っている。それこそ、まるでゴダールの映画のようではないか。『映画史』の時間のような強靭さではないか。ここでは現在も過去も私も誰かも猫も風景もまったく違いはない。いつ終わってもまるで構わないし、どれだけ続いてくれてもやはり構わない。次に起こることへ興味が持っていかれて今ここへの注意が逸らされることもない。ただただ今、目の前に映しだされたイメージにそのつど目をくらます。ここに流れる異常な濃度の時間の経験、それを野蛮と呼ばずに何を野蛮と呼べばいいか。

 

この実践の豊かな成果が、また多くのフォロワーを生み出すのだろう。それらが豊かな実りとなることも楽しみにしたいが、ひとまず、保坂和志という異形の小説家の弛むことのない深化の過程の時代を生きることができているというだけで、僕らはひとまず幸せだと言ってもいいかもしれないしそれはさすがに言い過ぎのような気もする。

 

 

お母さんに手を引かれて歩いていた子どもが足許の石に興味を持ってかがみ込む。お母さんが「何してるの?早く来なさい。」と言っても、子どもはその石が変でかがんだまま動かない。考えているというのはその状態のことではないか。(P36)

 

しかし風景なのではない。私は浜から風景をそれは毎日見ないわけはなかったが、私にとって浜はポチと、ジョンがいたあいだはジョンとも走ったり歩いたり、歩きながら歌を歌ったり、その日ごとに変わる海の色調の変化や波の形の変化を見たり、夜には波の音だけを聞いていたこともあったそういうところで、それは体の感覚の全体だ。(P55)

 

陽射しの中で毛づくろいしていたそれを中断した猫は、空地に捨てられた錆びた鉄の階段が時間の経過によってそうなったのでなく最初から錆びていたと子どもはただ理解していたのと同じように揺るがない何者かだった。(P122)

 

うちの猫たちはいまここにいるやけに体がデカい人間が強風の原因だと思っているんじゃないかと私は感じた。いや、原因などというのは人間が考えがちなことで、ブンやピルルはここにいる体のデカい人間を外の強い風だと思っているんじゃないか。(P128)

 

過去の要素の変化が現実に及ぼす影響はどこがどうという一対一対応のようなことでなく、とにかく根本的に徹底的なのだ。(P161)

 

あのとき菊名に住まなかったら羽根木の裏道で私はチャーちゃんに出会わなかったということでなく、あのとき菊名に住まなかったから羽根木の裏道で私はチャーちゃんと出会った。あるいは、「あのとき私は菊名に住まなかった。羽根木の裏道でチャーちゃんを拾った。」(P162)

 

私は笑い出した。「笑うなよ。こっちは真剣なんだから、ちゃんと聞いてろよ。」「わかった。」と言ったものの、笑ったら真剣じゃないとはかぎらない。笑うしかない真剣さというのがある。(P165)

 

「持ってんなら最初から貸せよ。っていうか、貸してくださいよ。」村中鳴海は冗談で「貸せよ。」と言ったら、自分でも響きの強さに驚いて慌てて「貸してくださいよ。」と言った。(P223)

 

私は「大変だ!大変だ!」「すいません!すいません!」と口では言いつつ、どれだけ誇らしかったことか!若い獣医さんたちだってトリマーの女の子たちだって楽しさに興奮したに違いない。(P263)

 

職人になるともう仕上がりがここにあんねん。」と、ヒロシ君は自分の頭の横に風船でもあるような仕草をした。「世界のどこかにもう存在してんねん。せやから、カマキリも卵産みつけよるときには、雪国のカマキリは雪の積もるんもわかってるし、卵からカマキリの形した小さい子どもがゾロゾロ出てきよったときに、」(P293)

 

人生の時間の流れに出逢いや出来事が点在するのでなく、出逢いや出来事が起きるそのつどそのつど人生の時間の流れが起こる。(P320)

 

「あたし、帰った方がいいでしょうか?」

「ダメだよ。そんなことしたら、俺が追い返したみたいじゃないか。」アキちゃんは言う。

「猫って、かわいいよな。」

「そうですね。」

「仕草がかわいいよね。黒くて太いのがピルルで、こっちがプン、ーー」「ブン。」「あ、そうか。そうだったね。

で、何の話をしようか。」

「不倫?」

「前世の話をしよう。」(P325)

 

この写真一枚がこの前の全部とこの後の全部とここに写っていないブンを写している。ここに写ったピルルとチャーちゃんを見て、写真だから動かない、前と後の時間がわからない、というのは思い込みだ。(P405)

 

村中鳴海は昔の話を聞いてもらいたがり私は聞いていると自分の中学高校が懐かしくて仕方ない。もう本当に情けなかった自分の中学高校時代をそうした鎌女のあの人やヨッちゃんの友達に私はいま声援を送っている。あのときあの二人がいなかったらあのときの私は何もないというのはもっともらしい言い方だからきっと嘘だ。私はああいう二人が好きだ。私があの頃世界をこんちくしょうと思っていたようにヨッちゃんの友達もこんちくしょうと思っていた。私はあの頃、鎌女のあの人が世界をこんちくしょうと思っているなんて思いもしなかったが思っていなかったはずがないのは村中鳴海がそうなんだからそうでないはずがない。村中鳴海がここにいることであの頃のあの人に生命が吹き込まれる。(P434)

 

ポッコはジョジョに俺たちを悲しませないためにポッコがこの世の使命が終わってもまだ頑張って生きたように、ポッコはジョジョに俺たちのそばにまだいてやるように言い、ジョジョもそれを受け入れて抜け殻の体で必死に生きつづけた。友達はそれを巨大隕石が落ちて壊滅状態になった地球に住んでいた恐竜に喩えた。その恐竜たちの、言葉を必要としない確実な死の理解が自分にはわかった気がしたと言った。(P469)


  1. http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20121228/1356679830 []

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