読書感想文 伊藤計劃、円城塔/屍者の帝国
2014年2月27日
屍者の帝国こういう作りの小説をオルタネートヒストリー、改変歴史小説と呼ぶらしい。『屍者の帝国』も、調べてみると、すごくたくさんの実在の人物、フィクションの中の人物が登場しているらしい。僕にわかったのはワトソンとカラマーゾフとバロウズとナイチンゲールとダーウィンぐらいで、本当にそのぐらいで。
主要な人物だけ取って見ても、こんな感じらしい。
ヴァン・ヘルシング教授とジャック・セワード教授:『ドラキュラ』(ブラム・ストーカー)の主人公のヴァンパイア・ハンターとその弟子
バーナビー:English traveller and soldier
アドラー:アーサー・コナン・ドイルによって発表された推理小説、シャーロック・ホームズシリーズに登場する架空の人物。アメリカ生まれのオペラ歌手で、女山師、機略縦横の女性、ただ一人名探偵を出し抜いた女性などと評される。
バトラー:『風と共に去りぬ』の登場人物
云々。面倒くさくなった。スペクターとかウォルシンガムとかノーチラスとか日本人の方々とかも全部何かしらあるみたい。そういうことをかなり細かく書いているサイトもあったので適当に調べてみてください。
改変歴史小説というたぐいのものに触れた経験自体がたぶんとても少ないため、なんとも言われないところだけれども、例えば映画を見ていて、最近だとフランソワ・トリュフォーの『家庭』を流し見していたときに、主人公アントワーヌ・ドワネルを演じるジャン=ピエール・レオーが電話ボックスに立ち「ジャン・ユスターシュにかわってくれ」と言うとか。それに限らずヌーヴェル・ヴァーグの映画たちにはオマージュであったりパロディであったり仲間たちや尊敬する先達への目配せみたいなものがよく見られて、知っていて反応できるものだとニヤッとしたり嬉しくなったりするのだけど、知らなかったらそもそも目配せであることもわからないから何も反応は起きない。
別段、予備知識がないとダメだというわけではないのだろうけれども、こうまで多くの、そもそもに背後の厚みを持った人物や物事たちの競演である以上、知っている者と知っていない者とのあいだでは、読んでいる時間のなかで起きる反応の数がまったく異なってくるだろう。本来であれば、いくつものいくつものいくつもの反応ポイントがまきびしのように置かれていて、それを踏みながら「もう、どれだけ撒いてるんだよ、痛いなあ」などとニヤニヤ顔で言いたい。それが出来なかった分、乗れなかったということか。いや、『虐殺器官』だってどうも色々といわゆる元ネタみたいなものが散りばめられているらしいけれど、なにひとつわからなかったけれど面白かったのだから、わからないから乗れないという流れは違うのだろう。
じゃあ、これだろうか。
この作品が、やはりそれだけど、歴史改変小説である、つまり過去のお話であるという点によって、乗れなかった、ということか。
先に挙げた『虐殺器官』にしろ『ハーモニー』にしろ、伊藤計劃の長編小説は僕を本当にワクワクさせた(それ以外は読んだことがない)。おやまあ、とんでもない作家がいたものだ!世界レベルの作家だ!一刻も早く英訳して世界を驚かせてやれ!などと、ひどく興奮したものだった。
その興奮を支えた大きなものが、近未来の描写というか導入される様々なテクノロジーや社会システムの生々しい描写で、「今までまったく考えたことなかったけれど、言われてみたら、絶対これ実現されそう!」という、現代世界への深く鋭く的確な洞察および強靭な想像力への感嘆といったところだった。読んでいる今、現在が、そこで描かれる近未来の光景によって引っ張られるというか引き伸ばされるというか、ぐっと、読書をする自身の像が、現在から近未来へ、長い影みたいになって伸ばされる感覚。今ここに自分はあり、そしてそこにも自分はあるというような不思議な同居の感覚。それがこのうえなく楽しかったのだった。
それが過去のお話となると、擬似霊素をインストールさせる機械にしてもなんにしても、そういった未知のテクノロジーを見たときに、ワクワクしそうになったそのときに、ふいにそれが過去の話であったことを思い出し、今まさに前方へと飛翔しそうになったワクワクが後ろから伸びる手に掴まれぐっと引っ張られ、押しとどめられる。そんなふうに僕はなった。「すでに過ぎ去り、そしてそうではなかったと知っている歴史、の改変」というものを、どのような態度で読んだらいいのかがまるでわからなかった。だって実際そうじゃなかったんだから、そうだったらどうだったかなんて考えたってなんも意味ないじゃん!というような、普段は読書の意味なんてまるで考えないし意味なんて必要でないと思っている僕が、そんなふうに思うのだから驚きだった。こんな態度であるならば改変歴史小説は全部読めないということになる。きっとそうじゃない。だからこれとて乗れなかった理由などではいささかもなく、乗れなかったからこういう馬鹿げたことを思ったということだろう。
だからもう一つの理由も、乗れなかった理由ではなく、乗れなかったから気になる瑕疵に過ぎないはずだ。
それは冒頭の講義のシーンだ。
「『不気味の谷』ですね」
というところで講義の終了を告げる鐘が鳴り、二人は我に返った。
はて、と思ったため改めて読み返してみた。やっぱりおかしい、と思い、試しにストップウォッチを出して、セリフの部分を声を出して読んでみた。所要時間は3分36秒。なんて、なんて短い講義なんだ!せっかく霊素についての第一人者であるところのヴァン・ヘルシングさんをお招きしたのに、いったい全体なんて短い講義なんだ!
……書いていても、こんなことは上げ足取りでしかないということは本当に痛感するのだけど、乗れないということは本当にこういうことなんだろうなともまた痛感する。面白く読んでいればなんでもないようなところでも目について仕方がない。
では伊藤計劃のプロローグを引き継いで長編に仕立てあげた円城塔がいけなかったのか。円城塔と僕の相性が悪かったのか。
円城塔の小説は『Self-Reference ENGINE』だけしか読んでいなくて、感想は「あったまいい人がいたもんだなー、僕にはさっぱりついていけませんが!」という馬鹿丸出しのそれだった。にも関わらず、例えばウラジーミル・ソローキンの『青い脂』とか、アンディ・クラークの『現れる存在』とか、円城塔の推薦文が書かれているものを、円城塔が推薦文を書いているという理由で買って読んだりもしてしかもどちらも面白く読んだのだから人間というものはわからないものなのだけど、とても久しぶりに読んだ円城塔の文章は、『Self-Reference ENGINE』同様うまく頭に入ってこなかった。
以上いろいろ書いてみたけれども、乗れなかった体験について書くことはやっぱりそれ自体が乗れないもので、こうやって書いていても何一つ面白くなかった。