読書感想文 ジョゼフ・コンラッド/密偵
2014年3月4日
密偵 (岩波文庫)絶えず裏切りを念頭におかねばならぬスパイは、どのような情況下であれ、他者の言葉から二重、三重の意味を読みとかねばならず、相手が味方であってもそれを怠ってはならない。スパイにとって情報収集とともに重要な作業とは、誰がスパイなのかを明確に知ることなのだから。そして、スパイは特異な存在である自己を社会においては常に平凡な存在として仮構していなくてはならず、同時にその特異な才能を発揮しつづけてもいなければならない。つまりスパイは自分が他者の眼にどう移っているのかという問いをくり返し発動させ、そこで得た回答を幾度も吟味しておく必要がある。だから優秀なスパイとは、より多くの眼と耳、もしくは複数の意識を、絶えず連動させつつバランスよく統御し得る者だといえる。確かにこれらはとりわけスパイにのみ当てはまる条件ではない。しかしスパイは、こうした情況を極めて苛酷に、絶対的な体験として生きているということを忘れてはならないだろう。
と書かれた阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』を読んで、そういえば以前古書市みたいなやつでスパイっぽいタイトルのやつを買ったよな、と思い出し、コンラッドの『密偵』を読むことにしたのだった。ヒッチコックの『サボタージュ』の原作らしい。
1857年生まれのポーランド出身のイギリス人、海洋文学を得意とした、『闇の奥』という作品はフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』の原案となった、ということがウィキペディアによると知れたコンラッドに関しては大学生の時分にゼミの課題読書として『ロード・ジム』を読んだことがあるだけで、それもどんな小説だったのかきれいさっぱり忘れてしまったので、どんなものを書く作家なのかはまるで見当もつかなかったのだけど、タイトルがタイトルなので、クールに決めたスパイが暗躍して様々な事件が惹起され、何もかもが間一髪、高いテンションで持続されるサスペンス、次のページを繰るのが楽しみすぎて、もうこんな時間だけど、眠れない!「警察! 大使館! ひぇー!」みたいな気分で読めたらいいなと思って読み始めたものの、△の異名を持つ密偵ヴァーロック氏からして、冴えないデブのおっさん、ちょっと歩いたら汗だくで息切れ、みたいな感じだからどうなっちゃうんだろう、と懸念を抱いてはいたのだけど、大使館でヴァーロックにグリニッジ天文台の爆破を指示するウラジミル氏の発言がなかなかによかった。
世論になんらかの影響力をもつような爆弾攻撃は、いまや復讐だのテロリズムだのといった意図を超えなければならない。ひたすら純粋に破壊的でなければならない。他に何か目的があるのではなどと露ほども疑われることなく、ただひたすら純粋に破壊的でなければならない。(P48)
ローラーなんかかけたって、「ああ、あれはただの階級憎悪さ」なんてうそぶかれるにきまっている。しかし、あまりばかばかしくて理解することも説明することもできず、ほとんど考えられないような、じじつ気違いじみた、破壊的狂暴性を帯びた行為に対しては何と言うべきだろうね?(…)攻撃には、いわれなき冒瀆のあらゆる衝撃的無意味さがなくてはならぬ爆弾があんたらの表現手段なんだから、もし純粋な数学に爆弾を投ずることができるならほんとに強烈なんだがね。(P50)
ただひたすら純粋に破壊的。衝撃的無意味さ。というあたりがなんとも言えずいい。
そういうことなのでまあどうだろうなと思って読み進めてはいたのだけど、指示を受けたあとのヴァーロックは太った体をだらしなく弛緩させて物思いに沈むばかりでキビキビとした諜報活動などこれっぽっちも描かれないし、何よりも鬱陶しいのは語り手の評論家気質で、たくさんありすぎてどこを引けばいいのかわからないのだけど、とうとう憤激したらしくノートに「ここにあるのは行為や場面ではなく書き手の傲慢な想像だけだ。評論に付き合っている暇はない!」とバカみたいなメモを取っていて、その箇所はここだった。
ヴァーロック夫人は根本的情報を求めてこの束の間の人生をいっときたりとも無駄にすることはしなかった。これはどこから見ても分別ある態度と思われる一種経済的な処世術であり、なにがしか得な態度でもあった。明らかに、人さまのことをあまり深く知り過ぎないというのは結構なことではなかろうか。(P243)
今こうやって引用しながら読んでみても「うるせーよ!」の一言で済ませたくなるような書きっぷりだ。何度読み返してみても「うるせーよ!」と思う。
だからもう、これダメだな、全然おもしろくない、と半ば読書を放棄しようかと思っていたのだけど、そのたった2ページあとの、「スティーヴィーは、打たれるということがどんなことかを知っていた。経験からそのことを知っていた。それはいけない世界だ。いけない、いけない!」でなんか面白いな思い抜き書きし、さらに次のページ、やはりスティーヴィー、「そして、事実、それらをついに得た。彼はすぐに立ち止まって、それを言葉にした。「哀れな民衆にとって悪い世の中だ」」をまた抜き書きし、その抜き書き部分に対して「このあたりとつじょ面白い」とメモを残し、少し持ち直した。
そうこうしていると第9章に辿り着き、283ページあたりからの警視監がやヒート警部がやってくるところを、ヴァーロック夫人側の視点から描くところはこれまでのつまらなさが嘘のようにたいへんスリリングで息を呑んだ。事情がわからないながらに共謀する感じ、夫不在時に交わされるヒート警部との会話、浮き上がってくる事実、そしてなんせ、ドアを隔て、とぎれとぎれに聞こえてくる警部と夫の会話、ドア越しに知らされてしまう真実。イギリス文学を代表するような作家らしいコンラッドに対してこんなことを言うのも気が引けるけれども、店舗兼住宅という舞台装置を見事に活用した、すべてがうまくはまっている見事な場面だと思った。
さらに第9章の続きから夫殺害までを描く第11章も同様に凄まじく面白く、ここは特にヴァーロックの人間の屑っぷりがたまらなかった。事故とは言え、自身の企ての結果として妻の弟を木っ端微塵に死なせておきながら、その死を知り悲嘆にくれるというよりは抜け殻のようになっている妻に対する感情や発言として、まあ見事な屑っぷりを見せてくれる。
彼は肉を切り分け、パンを切り、テーブルの脇に立ったまま夕食をむさぼりながら、ときどき妻のほうへちらりと視線を投げた。彼女がいつまでもじっとしたまま動こうとしないので食の楽しみも台無しだった。(P336)
食の楽しみって!という驚き。
これはまたやけに厳しい受けとめ方をしているもんだな、と彼は考えた。(P338)
お前が軽すぎるんだろ!という。
さらにそういう軽薄なヴァーロックに同調するような語り手。
「さあ、もう寝なさい。おまえに必要なのは思い切り泣くことだ」
この意見は、人間誰しも異論なく認めるところという以外、べつにどこといって褒められたものではなかった。女の感情は、空に漂う水蒸気ほどにも実体のないものであるかのごとく、驟雨となって降れば終わり、という事実はあまねく理解されているところだ。(P348)
人間誰しも異論なく認める。という事実はあまねく理解。というあたりが本当に人を見下している感じでもはや愉快。(とは言えこういう女性蔑視的なことをさらりと書いちゃう感覚はもしかしたら時代的なものなのかもしれないのでなんとも言われないのだけど)
さらには悲嘆に暮れる妻に責任をなすりつける始末。
「おまえ、しっかりしなくちゃだめだよ。ちゃんと頭を使わなきゃ。警察をそばに引き寄せたのはおまえなんだぞ。まあいい、そのことはもう言うまい」と彼は寛大につづけた。(P357)
寛大に、と形容する語り手もまた。
挙げ句…
「こっちへおいで」と彼は一種独特の調子で言ったが、それは、聞きようによっては獣性の口調と思われないが、ヴァーロック夫人には求愛の声音としてお馴染みの口調であった。(P378)
この「メイクラブ、しようよ」の一言でぷっつりきた妻によってこのろくでもない男は殺されるわけだけど、もう見事なまでの屑オンパレードで、読んでいて痛快というほどだった。
この小説のクライマックスとなる後半部分を僕はだいぶ楽しみながら読んでいたらしくて、さらに第12章の、やはり同じ舞台、店舗兼住宅におけるヴァーロック夫人と伊達男オシポンのあれこれもすごく面白くて、ヴァーロック夫人の強烈な変わりっぷり、それにたじろぐというか様々な恐怖を覚えるオシポン、という光景がすごくよかった。
苦痛の叫び声をあげてよろめきながら、気が狂いそうなドア・ベルの鳴る中で、両腕が、ひきつった抱擁にしめつけられて、脇に釘付けにされたのを感じた。と同時に耳もとで女の冷たい唇が虫の這うように動いて言葉になった。(…)なんとしても彼を離さなかった。彼女の手は、彼の屈強な背中で指と指とをからませて、離れないようにがっちりと組み合わされていた。(P414)
しかし、駆け寄ったさいに彼女とぶつかって倒してしまった。いまや彼女が脚にからみつくのを感じた彼は、恐怖が頂点に達して逆上したような状態になり、妄想をいだき、譫妄状態特有の症状があらわれた。彼ははっきりと蛇身を見たのだ。彼は女が蛇のようにからみついてきて、どうしても振りほどくことができない。(P421)
このあたりのヴァーロック夫人はほんとうに妖怪みたいで恐ろしい。
こんなふうに妖怪じみた女に迫られ続ければ、その果ての伊達男の妄想もやむない。
彼はスペインかイタリアのどことも知れぬ寒村で、屈辱的な恐怖にとらえられて暮らしている自分自身の姿を見た。そうしてやがてある晴れた朝、ヴァーロック氏と同じように胸にナイフを突き立てられて死んでいるところを警察に発見される……(P422)
殺されることよりも、「屈辱的な恐怖にとらえられて暮らしている」という状態が本当に恐ろしい。
そういうわけでつまらないつまらないと思いながら最後になって面白い面白いとなって読んだわけだけど、面白かったのでなんでもいいのだけど、この小説は読む前に期待していたようなスパイのあれこれではいささかもなくて、いみじくも警視監が言ったように「ある観点からすれば、われわれはここで家庭劇を眼前にしているわけですよ」というわけだった。
面白かったのでそれはなんでもいい。だけどこの主張したがりで説教くさい、他人にはまるで興味なくて自分の話だけとにかくまくしたてたいよくいるおっさんのような独善的の語り手と一冊分付き合ったあとでは、コンラッドの他の小説も読んでみよう、というふうにはならなかった。