2013年ベスト、音楽

book cinema text

現在読んでいる本はレイ・オルデンバーグの『サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』で、昨日の営業終了後、本屋に行き岡田利規の『エンジョイ・アワー・フリータイム』、野々山真輝帆編の『ラテンアメリカ傑作短編集: 中南米スペイン語圏文学史を辿る』、『映画はどこにある インディペンデント映画の新しい波』を買った。

『サードプレイス』はサードプレイスって大切だよね的な考え方があったりするというか商売柄というのかそういうことを考えたい的なところもあったりなかったりしたために読んでいるのだけれども本当に反発ばかりしながら読むような感じになっていて、「うるせー!」と何度思ったことか、というところで、それが別にストレスだからというわけではないにせよフィクションがほしい、フィクションが!圧倒的なフィクションが!と思ったため丸善に行き、元々は『ラテンアメリカ傑作短編集』と『映画はどこにある』を買うつもりで行ったのだけど、その『映画はどこにある』のある棚に向かっている途中、というかそのほんの手前、戯曲のコーナーをなんとなしに見たら岡田利規のそれがあり、読んでみたい気はなんとなくしていたというか読んでみたかったような気はあったというか読んでみたいと思ったことは何度かあったような記憶があったし、それでなくても「エンジョイ・アワー・フリータイム」という語の並びの響きは好きで、このブログはおろか、店のブログにおいてすらもそういった語を打ち込んだことがあったわけだったし、だから、というわけでもなく何かに引き寄せられるようにして本を手に取りページをめくると序文があり、その最後に「それから、わたしにはどうにかして現実を肯定しようとする傾向がある」とあり、それで「あ、はい、買います」となった。

それを昨夜、スターバックスに行き、それからサイゼリアに行き、最後にマクドナルドに行くという資本主義の虜みたいな形のはしごをした昨夜、読んだわけだった。「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」は舞台を見たことはなくて、だから初めて作品に触れたのだったけれども、面白かった。私たちも後を追いますというあたりとか、そういうあたりに、ドキドキした。労働。「フリータイム」はスーパーデラックスで、大学卒業を控えた時期に見ていて、それもすごくよくて、もうほんとやっぱり大好きだよ岡田さん、あんた!と思ったあとに近くのカフェ的なところで茶をしばいていたら岡田さんが客として入ってこられたのでドキドキしながら話しかけて購入したばかりの『三月の5日間』のDVDにサインをしてもらったというなんというか甘酸っぱい記憶が重なるのだけれども、読んでみたらやっぱりすごく好きで、

 

店員 (その三十分を、気分が「こうやってる時間をこのまま今日はもう少し続けてみよう」って思ったときとかは、延長して一時間とか一時間半とか満喫しちゃってもたぶん大丈夫で、職場に行って「あ、私今日、ファミレスが駅前にありますよねいつも三十分くらいあそこで自分の時間って大切なので過ごすっていう日課はどうしても不可欠なんでやるんですけど、それを今日はもう少し続けてみようって思って、それで続けて来てそのぶん遅刻して今来ました」って言ったら「あ、そのくらいのことはいいと思うよ、ていうかそういうのって正直、ここだけの話大切だからそういうことしてたほうが絶対いいと思うよ三十分でじゅうぶんって思うのとかって違うと思うよ」とかって普通に許されちゃう場合ってありそう)

 

とか

 

女(嘘) や、でもそんなに客となーなーみたいになっちゃいけないみたいなのは、そのほうが私もいいと思いますけど、こういうところはファミレスだし所詮、

店員(嘘) あ、はいその「所詮」って部分が相当大事だと思ってて、あ、分かってるなあっていうそういうお客さんというかお客様は助かります、

 

とか

 

女 でも三十分で、結構だいじょうぶでっていうか、うん、そういう面はあって、その三十分は日記っていうのかどうか、前の日に自分に起きたこととか、それと関連して考えたこととかについて、ノートに、普通の大学ノートで横線の罫線のついた、そこにペンとかで書く時間にあてていて、ときどき三十分が、そう、ときどきでいつもそうなるわけじゃないですけど三十分がほとんど、永遠、(ウケて)、うん、でもそう、永遠! におおむね等しくなることがあるっていうことを私は知ってて、そういう経験をしたことがある、確かに知ってて/るってことが私のなにかになってて、なにかにというのは、希望の根拠、になって/なってるんです、だから三十分で私は大丈夫なんです全然それ以上要らないんだと思っていて、全然自分的にはフリータイムを三十分で満喫って感じなんです、よねー。

 

とか、本当にすごくよくて、希望の根拠、よっぽど、『サードプレイス』よりもこっちの方がサードプレイス論としていいんじゃないのかっていうか私にとって響くものであるということでしかないけれどもそういうことを思って、サンクトゥム・サンクトルム、私はそういうことを思っていて、フィクションが!と言って買って『ラテンアメリカ傑作短編集』は冒頭のエステバン・エチェベリーアの「屠場」だけ(スターバックスで)読んだのだけれども、確かに、「フリータイム」をサイゼリアで読んだということは悪くない選定だったようなところがあり最近私はサイゼリアはとてもいい時間を私に提供してくれるような気がしつつあるのでいつだって思うけれども資本というものは侮れないし、そういう場所を軽蔑したり下に見たりすれば事足りるというわけでは全然ないわけで、糞くだらないサードプレイスもどきよりもよっぽど誰かにとっては大切な場所になりうるわけで、サイゼリアが大切かといえばまだそんな段階には全然来ていないけれども、いずれにせよ「屠場」を読んだのはスターバックスで、真っ赤な、50頭の牛が屠殺される情景、その肉を民衆が取り合う情景、暴走した牛によって子供の首が飛んでしまう情景、そういうものを見て私はおれの精神は正常ではないというあの『無分別』を、というよりはグァテマラの、マヤ民族の被った歴史を思い出さないわけではないけれども、子供の首が刎ねられ、民衆たちは(スターバックスで)真っ赤に染まっていた、というのがその夜の全貌だった。野蛮このうえない、という感想を書きながら、私の目は喜んでいなかっただろうか。おれの精神は正常ではない、それならばどうするのか、ということへの究極的な解決案としてゼーバルトの、アンブロース叔父、積極的に電気ショック療法を受けて壊れていったアンブロース叔父のそれ、「思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていたのですよ」、はあまりに薄ら寒く、あまりに重く、カーブする線路に横たわり砕け死んだ教師のそれよりもよほど薄ら寒い自殺方法だけれども、BYOFバーでデボチカをトルチョックしてスタージャ(あるいはスターバックス)に入ることに比べれば私にとってはそう悪くない洗濯というか休みが近くなればタオルが枚数が足りなくなるような気がして今日も緑とピンクと青のタオルというか食器拭きを見比べて呆然と立ち尽くす時間を5分ほど、使ってしまったのもありそれは嘘だったはずだけれども缶コーヒーは飲んだ朝からお腹を下して30分ほど、使ってしまったことは昨日だったか今日だったか定かではない。それで朝の準備が遅れれば本当にろくでもなかったというところで、ここ数日の夜は待ちに待ったSIM LABの新作を数曲ずつ聞きながら、カラフルにしてソリッドなサウンドのそれを数曲ずつ聞きながら、最高だよあんたたち、と思うのだった。

それにしてもSIM LABの2nd、OMSBがツイッターでitunesストアランキングで何位で嬉しいんだけどフィジカルで買ってくれると嬉しいですみたいなことを書いていたのもあり、DVDもついているというのもあり、DVD以上にOMSBのその発言に促されて「お、それならフィジカルで買うよ、そっちのが嬉しいんだったら」という気になったのでAmazonで買ったのだけど、買って、届いて、最初にしたことがitunesへのインポート、そこからiPodとiPhoneへ、というこのなんともやるせない作業、それはそれで全然いいんだけど、なんともやるせないこの作業。特典DVDはまだ見ていないのだけどジョン・カーペンターの『ゼイリブ』みたいなシーンがあるという噂を聞き、見るのを楽しみにしている。(ゼイリブに対する思い入れとかまるでないけど。いや、思い出はある。友人の家に行ったらそれがテレビで流れていたのだった。それを思い出す。どの駅なのかもまるで思い出せないけれど、それを思い出す)

 

ということでここで唐突に2013年のベスト企画の音楽編になるのだけど、3月なのだけど、

 

5lack × olive oil

vanadian effect

flashbacks

omsb

f.s.blumm & nils frahm

bill orcutt

captain murphy

kid fresino

kendrick lamar

otogibanashi’s

 

ここらへんだった。私の頭の中には新譜も何もないので発売がいつなのかとかはまるで関係していないのだけど一位はvanadeian effectに捧げたい。何度聞いても興奮した。2013年の気分、ということであればそれで、2014年の気分、ということであればいつだって頭の中に現れるのはOMSBだ。アゲンストアゲンストアゲンストアゲンスト、と頭の中で何度も叫ばれている。フラッシュバックスもとても本当によかった。サグというのが実際のところどういうものを指すのかは私はわかっていないのであれなのだけどヴァナディアンもオムスビもフラッシュバックスもサグというところでいいよねというところだった。いいよねというか、端的に言って鼓舞された。どつかれた。弱いので私は一撃で倒れたまま立ち上がれないでいるし店で流していたものではF.S.Blummとニルス・フラームのやつが最も好まれた。F.S.ブルムは個人名義のアルバムもよく流れていて、いいよね、この人、とずっと思っていたら日本にツアーで来るらしく、岡山の会場は私たちの店になったのでとても嬉しかった。こういうのって本当に嬉しいよねと思う。

 

三月。

 

の5日間。それからエンジョイ、フリータイム、とチェルフィッチュは大学在学中に見たのはその3つなのだけど、昨日読んだ「ホットペッパー~」にしても、いずれも労働の問題が描かれていた。労働。あるいは非労働。というか、人生のある一片を描くことが、労働あるいは労働の不在みたいなものと直結してしまう人間というか人間の人生というか人生ってなんかすごいなと今日あらためて思ったのは今日だったか昨日だったか忘れたけれども、やぶさかではないけれども、労働をすること自体はやぶさかではないけれども、それほどの重要事であるということがなんというか改めて驚いたというか、労働、だから私たちの人生、私たち。

 

『なみのおと』を見たのは先週のことで、『なみのこえ 気仙沼』と併せて上映された。それらを見た。どれも本当にいいのだけれども、やっぱり私は『なみのおと』の最後の新地町の姉妹のやつが感動し続けて(つまり鼻水を流し続けて)、口のあたりがずっと冷たかったのだけれども、あの姉妹の見せる表情、カメラの前とはとうてい思えないあの満面の笑み、離れて暮らす姉妹ゆえなのか、なされる会話があまりに新鮮(というのは彼女たちにとって)であることが奇跡のようで、姉の口から世界が、地球が語られるときのあの躍動、二人のあいだにあるあの率直さ、親密さ、それらすべてがあまりに掛け替えがなかった。という話はなか卯でおこなわれた。

 

「そうですね。『なみのおと』の場合は、実際に一度話を聞いて、それを改めてキャメラの前で話をしてもらうというかたちを取りました。同じようなことを一度話してはいるものの、正確には同じ話ではないし、その場で初めて出てくる話もある。ただ、そのことは、たとえばインタビュイーがうっかり漏らしてしまう生々しさを撮るということが一番の目的ではなかったんです。キャメラの前で、ある種の空々しさに耐えながら話してもらうことが、とても重要なことだと思ってました。」とインタビューの記事であった。空々しさに耐えながら。先日震災を扱ったドキュメンタリーがやらせだったのがどうというのが話題になっていて、演出の範囲がどうの、という作り手の弁明があって、それに対するはてブとかのコメントを見たら「そもそもドキュメンタリーに演出とか」みたいなリアクションが散見されたのだけれども、なんかこう、いろいろあるよねと思った。『なみのおと』のいくつもの顔たちの前でも、同じことが言われるのだろうか。ガレキ。ゼーバルト。

ともかく現在読んでいる本はレイ・オルデンバーグの『サードプレイス』で、それから昨日の営業終了後、本屋に行き買った岡田利規の『エンジョイ・アワー・フリータイム』、野々山真輝帆編の『ラテンアメリカ傑作短編集』を並行して読みつつあるようなところがあり、『映画はどこにある インディペンデント映画の新しい波』もリュックの中に入っている。今年のルール、初めて読む本、昔読んですごくよかった本、を順番に読む、というものが3月、完璧に崩れた。このあたりにおれの精神は正常ではないとは言い切れない部分があるわけだったし煙草を吸いすぎているのか吐き気がさっきからしていてえづくなのかえずくなのかわからないし検索する義務も感じないし解決したいという気持ちも湧かないながらもちゃんと生きている。


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