読書感想文 岡田利規/わたしたちに許された特別な時間の終わり
2014年3月26日
わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)2006年3月にスーパーデラックスで見て以来、「三月の5日間」は僕にとってもっともアクチュアルな表現というか作品であり続けて、それ以降も何度も(何度もというほどではないというか二度。2007年の六本木クロッシングのときと2010年の鳥取、鳥の演劇祭のとき)舞台で見、DVDでも見、小説も読み、している(戯曲はまだ読んだことがない。こちらも近々)。
今回数年ぶりに小説を再読しようと思ったのは少し前に『エンジョイ・アワー・フリータイム』を読んでやっぱりいいよね岡田さんとなったからで、もともと持っていたのだけどお客さんに貸し出しをしたら数年も返ってこない、何度も督促の電話をしているのに返してくれない、電話にも出てくれなくなった、本当にうんざりする、というところで手元になかったので、しぶしぶAmazonで注文したのだった。ハードカバーで持っていたものを文庫版で買うというのも妥協のような気がして嫌だったのでマーケットプレイスで500円ぐらいのやつを買った。新品同様、状態はとても良しだった。
そういうわけで久しぶりに、しかしこれが不思議なことに、僕の過去をなんでも記録しているはずのエバーノートにはどこにも「わたしたちに許された特別な時間の終わり」というキーワードに反応してくれるノートがなくて、もしや「私たち」にしたのかなとか「残された」だと勘違いしていたのかなという説もあったので「許された特別な時間の終わり」とか「特別な時間の終わり」とかで絞って検索してみても同様で、どうやらこの小説、「三月の5日間」と「わたしの場所の複数」を収めた『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を買った、そして読んだ、ということは一度もブログやツイッター等で書いていないらしかった。そのため、いつが初読なのかわからないのだけど、間違いなく数年ぶりなのだけど、読んだ。図らずも、ちょうど二人が5日間を過ごした渋谷のラブホテルを出、別れた日かな、今日、という日に読んだ。3月20日がブッシュというかアメリカがイラクへ宣告したタイムアウト(タイムアウト。許された特別な時間の終わり)の日のようだから、そこから計算すると多分ちょうどその日ぐらいだった。だから何というわけではいささかもないけれども、それは僕に何かを思わせるには十分な符合だった。
で、その再読は相変わらず激しくアクチュアルだったし、もっとも大切な作品という位置づけは変わらなかった。先日、濱口竜介の『親密さ』を再見し、今日、この小説についてあれこれ考えたのちスターバックスの店内から窓の外を眺めながら□□□の「いつかどこかで」を聞いて、ともにそれは私に涙を流させたのだけど、この二つの作品と「三月の5日間」は、どこかで響き合っているような気がするのは僕の都合のいい捉え方でしかないだろうか。
何度も何度もこの作品に触れ、その都度、今回もやはり、僕がもっとも打ちのめされるというかアクチュアルぅ~というか本当にもう大切で大切で仕方ありませんと思うのは二人がこの特別な時間を5日間限定にしようと決めたというあたりのところで、実際にこの小説には何度も奇跡という言葉が出てくるけれども、本当に奇跡のような、美しいとしか言いようのない会話が描かれている。
「男のほうが--でも別に俺と、これからもそしていつまでも、みたいになろうとか、思わないでしょ?--と女に言った。男は--や、ほんと率直に、うん、って言っていいからさ、だってお互い様なんだし、言おうよ--と言った。うん、うん、と女は言った。涙の出ない偽の涙腺がぱかっと開いたようなすがすがしさがした。一度、二人のそのときのうんという声が、もちろん単なる偶然だったのだが、完全にぴったり重なりあったときがあって、それは奇跡の一種に思えた。あまりにぴったりと合わさりすぎたので、二人ともそれについて冗談めかして言及したりもできなかった。だからそれについては何事もなかったようにやり過ごされていった。それから男はまた話しはじめた--別にね、今の俺らのこういう関係が、ここから先たとえば、いつまでも系にはならないわけじゃない?でも、俺思うんだけどさ、いつまでも系の方が関係としてランクが上だとか、ランクが上だったら二人はいつまでも系になって、そうじゃないからこの関係はそうはならなかったとか、なれなかったとか、そういうことじゃ絶対にないじゃない。分かるでしょ?--女は分かるよと言った--うん、でもそれってすごいラッキーっていうか、この五日間一緒に過ごした相手がたまたまそういうこと分かる人だったっていうのはね、スペシャルなことだよなあって思うんだよね。そういうことみんなが分かるわけじゃ別にないからさ、ほんと、超スペシャルなことだと思うんだよ。超スペシャルとか言って、ただやってただけだろお前ら、って話もあるけど--(P67-68)」
分かるでしょ?分かるよ。このシンプルなやり取りが生み出す途方もない親密さに僕は毎度、本当に毎度、涙腺がぱかっと開いたようなすがすがしさを感じて僕の場合にはそういう親密な瞬間、ジャストな瞬間を目撃するといつだってすがすがしさが涙腺へと直結するのでちゃんと落涙する感じになって、落涙するのだけど、この瞬間は本当に本当に美しいと思う。
それは『親密さ』で言えば、妹が兄に「あなたのその言葉を聞いて、私はこれからも生きていけるような気がします」というようなことを言ったあの瞬間の、その「これからも生きていけるような」感じ。その瞬間さえあればなんとか生きていけるような感じ。人生にそういう瞬間以上に素晴らしい瞬間なんてないんじゃないかと思えるような、そういう感じ。「フリータイム」でもあったけれども、それは本当に、生きていくことの根拠、希望の根拠になるような、そんな感じだ。
何か、この二人が見せる最強の親密さは、世界を構成する秩序をどろっと溶かして無効にするような意志というか力を感じる。世界。ここでいう世界は、イラク戦争を含めた普段はカッコつきで「世界」としか思わないような世界で、渋谷のラブホテルの二人という極めて小さなユニットの小さなお話が一気にその世界を射程に捉えるダイナミクスにも、僕は毎度心を揺さぶられるというか鷲掴みにされる。
さっき秩序と書いたけれどもここで無効にされようとしている秩序は人間と人間の関係のあり方ともう一つ、「時間」もあって、それもまた、僕をなんだかものすごい気分にさせるところだ。
「いつの間にか私たちには、時間という感覚から遠ざかるようなあの感じが訪れていた--時間が私たちのことを、常に先に先に送り出していって、もう少しだけゆっくりしていたいと思っても聞き入れてくれないから、普段の私たちは基本的にはもうそれをすっかりあきらめてるところのもの、それが特別に今だけ許されている気がするときのあの感覚だ--それが体の中に少しずつ、あるいはいつのまにか、やってきていた。私たちは率先して自分たちがそうなるよう、積極的に仕向けて、そして実際そうなっていった。(…)
私たちはもちろんどちらも電話を持っていた。でも電源はすでに切っていて、私も彼も自分のデイパックの脇のメッシュのポケットに入れてしまっていた。さらにそのデイパック自体も、ベッドから一番遠い壁のところまで持っていき、見たくもないし存在すらしていてほしくないもののようにそこに置き、そうすることで時間を、自分たちの領域の外まで追いやってしまって、自分たちが、時間ってなんだっけ?くらいのところまでいきやすくするようにした。今になって私は、今があれから何日経ったのか、今の日付はいつなのか、そんなこと分からなくなってしまいたい、という気持ちでいた自分のことを、冷静に俯瞰できる。そしてあのときは、そういう気持ちでいることが特別に許されていたのだということが、よく分かる。私たちは窓も時計もない、テレビも見ずに済む、子供の夢のような部屋にいたのだ。セックスして、そのあとまったりする。いつのまにか寝て、どちらが先に寝たのかどちらにも分からないような幸福な奇跡の中で、私たちは短く眠る。(…)もちろん時計も太陽もない世界での話だから、あれが二日間だったのか、三日間だったのか、丸一日くらいでしかなかったのか、正確なことなんか分からない。そのときの私たちは、分からなくなることができていたのだ。(P53-55)」
時間という概念を消失させようとすること。それと同時に、携帯端末を通して否応なく関係しようと働きかけてくる世界(職場とか友人とか)とも切り離されること。すごくアナーキーな実践だし、なんかこう毎度、すごいはい!と思う。
たぶん僕にとって最も近い経験は、それは窓はなくとも太陽の真下だから時間の推移は自然のもとでよくわかるからだいぶ異なりはするのだけど、2007年の、大学最後の年に行ったフジロックでのことで、初日の晩に携帯を落として失くして落し物センターみたいなところにあるということは把握していたのだけれども最終夜まで取りに行かずに携帯なしで過ごした四日間だか三日間に当たるだろうなと思いだした。自然と偶然だけに身を任せるような時間の過ごし方で、その年のフジロックはそれまでで一番充実した気分だったんだ、ということを思い出した。
で、僕は今回これを二回連続で立て続けに読んでみたのだけど、それまで、この作品で描かれているものは最高の奇跡で、最高にジャストな瞬間で、最高に特別に許された時間だよね、というところで楽天的な感動をしていたのだけど、遅まきながら今回初めて気がついたことがあって、それはこの奇跡はいささかも楽天的なものではなくて、ほとんど綱渡りぐらいのもので、恐れのようなものが背後にずっとあったということだった。変質への恐れ、それから、モードをコントロールしようとする意志、というのがこんなにみなぎっていたのか、ということに初めて気がついた。上記の「自分たちが、時間ってなんだっけ?くらいのところまでいきやすくするようにした」とかもそういう恐れ及び意志の現れだし、それ以外にもたくさんというかオブセッションみたいにたくさんあった。
「自分そのものについての話は絶対にしないというようなことが、いつのまにか二人のあいだでなんとなくのルールのようなものとして諒解されていることの奇跡、みたいなことを感じていた。それが奇跡だということを、あえて口に出して言ったりは、絶対にしないでおこうと固く思っていた。バカみたいだけど、言ってしまうことでなにか変質してしまうのを、恐れていたからだった。(P46)」
「でも実はこのとき私は、不思議に思うことでそのモードが消えてしまったり元に戻ったりするのではないかと、少し心配していた。だから不思議に思っていることに、必要以上に自分で気付かないように、していた。(P57)」
「そしてもっとも厄介なもの、憂愁みたいなものを私のほうにおびき寄せてきた。その先の私はそのことから逃れられなかった。でもあまり気に留めないよう、最大限の努力はした。(P60)」
「このまま電車に乗ってしまって渋谷を離れたら、今感じているこの渋谷--知ってるのに知らない街--みたいなモードが自分の中から消えるだろうし、そしたらもう二度と、これは戻ってこないだろうと、正しく予感していたので、女はもう少しこれを引きずっていたかったから、まだ離れたくなかった。(P70)」
奇跡の維持のために二人が随所でストラグルしていたということが、今回になって初めて、やっと、なんだか、やっぱりこの作品はすごいもんだ、というものを僕に与えた。そしてまた、ストラグルのあとに「だけどしばらくそうしているうちに、この感じは意識すると簡単に消えちゃうとか、そういう脆いものではどうやらなさそうだ、ということが分かってきて、それからはもう、そのことにそんなにナーバスじゃなくなっていった。私はこの五日間を、最後までこのモードの中で過ごすことができた。とてもラッキーだった。たぶん私の人生でこれだけラッキーなことは、もうない。(P57)」という安堵と噛み締めが続くから、本当に感動的だ。
と、ここまでもっぱら「三月の5日間」についてだけウダウダと書いてきたけれども「わたしの場所の複数」も相当にやっぱり面白くて、次にどんなものがカメラに映し出されるのかわからないドキドキ感とか、描写の精緻さというか、身体・心情ともに映し出すカメラの画素数の高さ、小説のテンションみたいなものでいったらこちらの方が完成度は高いと思うし、そこで取り上げられるエピソードもどれも魅力的で、この作品について書き出したらまた長くなりそうな気がするのでもうやめる。
いずれにせよ、「三月の5日間」は引き続き、僕の中でもっともアクチュアルでもっとも大切な作品ランク1位を維持し続けるだろう。『市民ケーン』があれこれのランキングで1位に置かれるのを見て「え、引き続き?」みたいな感じを受けるときがあるけれど、「三月の5日間」は僕にとって間違いなくそれのようだ。大好きです。