読書感想文 ロベルト・ボラーニョ/鼻持ちならないガウチョ

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鼻持ちならないガウチョ (ボラーニョ・コレクション)

実際のところ、ラテンアメリカ文学とは、ボルヘスでもマセドニオ・フェルナンデスでもオネッティでもビオイ=カサーレスでもコルタサルでもルルフォでもレブエルタスでもなければ、ガルシア=マルケスとバルガス=リョサの老マッチョ二人組でもない。ラテンアメリカ文学とは、イサベル・アジェンデ、ルイス・セプルベダ、アンヘレス・マストレッタ、セルヒオ・ラミレス、トマス・エロイ・マルティネス、アギラール=カミンだかコミン、そしていまここでは思い出せないその他大勢の著名人たちのことである。(P153-153)

 

聴衆たちを大笑いさせたという講演録「クトゥルフ神話」はこんな感じでたくさんの人名が出てくるわけだけど、知らない名前もたくさんある中ではどんな皮肉を込めてボラーニョが話しているのかはあまりわからないから大笑いの感覚なんてまるでないのだけれども、僕がなんでラテンアメリカ文学にこんなに肩入れしているというかワクワクを持続させているのだろうと考えた時、その理由の一端がこの講演録を読んでいる時にわかった気になって、それは、ラテンアメリカの人名が好きなのだ、という実に簡単なことだった。おびただしい数のカタカナの固有名詞を見ているだけでなんだか胸がときめいてくる。ボルヘス!フェルナンデス!オネッティ!カサーレス!コルタサル!ルルフォ!ルルフォ!ルルフォ!という具合だ。

 

そういうこともあってか、巻頭の「ジム」なんかは、火吹きの男を見るジムを語り手が見ている場面なんかはすごくいいのだけど、いかんせん出てくる人名はアメリカ人のジムたった一つであるせいか、たった3ページの掌編ということもあり、「まあそっか」ぐらいのところで終わってしまったのかもしれない。

 

いやそれは嘘だ。やっぱりそのシーンはすごく美しいものだったし、一つの記憶を呼び起こした。

それはいつだかのフジロックの夜のことで、オアシスで(それはフェス会場の中の憩いのオアシスであり、決して倦怠の砂漠の中の恐怖のオアシスなどではなかった)僕らは大道芸を見ていた。レッドマーキーや岩盤のところから届いてくるビートや重低音の中で、若いパフォーマーが一生懸命大道芸をやっていて、たぶん四人とか五人で見ていた僕らは僕らなりに「いいよね、がんばってるよね」という気分で見ていた。僕らは二十歳そこそこで、人生や未来のことなんて楽観的にしか考えていないか、あるいはほとんど考えてすらいなかった。そういう若い僕らの中で、友人の友人ということでこのとき一緒に来ていた人がいて、その人は一人だけ30過ぎか前か、いずれにせよそのぐらいの年齢だった。彼はバンドをやっていて、そのかたわらで自分の店だったのか雇われ店長だったのか正確なところは覚えていないけれどもバーの類の店に立っていた。彼はその年のうちにバンドで結果が出なければ教師になる、という決定をしていた。しかし結果とはなんだったのだろう。一度だけ、ライブを見に新宿の小さなライブハウスに行ったことがあったが、ドラムとギターのインストバンドで、すごく格好良かった。ライブを見たのはフジロックの前だったか後だったかはっきりとは覚えていないけれど、とにかくその夜、様々な音や光にあふれたその夜、僕らは大道芸を見ていて、ハラハラしながら見守ったり成功すれば喝采を送ったり僕らなりに感動したりして、そういうことをひと通りおこなったあと、そばにいた彼が腕を組んで立ち尽くしたまま滂沱していることにみな気づいた。それは茶化すことのできるような泣き方ではなかったし、若かった僕らは、さりとてその気分を十全にわかることなどできず、彼が涙を流したままパフォーマーに歩み寄り、投げ銭用の帽子に大きなお札を入れているのを見ていたのだった。彼はパフォーマーに何か話しかけていた。握手もしていたかもしれない。大道芸を見終えると、僕らは早々とキャンプサイトに帰ることにしてみなで歩いていたのだけど、先ほどの光景を見てから僕は何か考えるようなモードに入り込んでしまい、先に帰ってて、と言って友人たちと別れた。コーヒーを買い、どこかに腰掛けて煙草を吸った。それは何か考えるようなモードのためといった風でありながら実際のところはただのポーズでしかなくて、本当はただ、コーヒーと煙草の一人の時間を少し過ごしたかっただけだった。

 

という感じで僕なりにボラーニョ風みたいなタッチっぽい感じで書いてみたのだけど、しかしボラーニョ風というかボラーニョのスタイルというか、ボラーニョのコアみたいなものというか、ボラーニョをボラーニョたらしめている要素っていったいなんなのだろうか。何か泣きたくなるような寂寞としたもののような気もするけれども、そうじゃない気もするし、アクションというか身体の見事な運動という感じでもないし素晴らしい長広舌とかでもないし情景描写の妙といったものでもないし。僕を、そして多くの人を惹き付けているボラーニョのボラーニョらしさとはいったいなんなのだろうか。これまで邦訳されてきたものはどれも読んだけれどもよくわかっていない。なんとなく、触れてくるよね、心の襞に、みたいな感じだろうか。これが一番そんな感じがする。そんな感じがすると言っても何もわかったことにはなっていない。解説の青山南の、「彼の文章世界にやけに印象に残るシーンが多いのは、「聖母マリアが姿を表したときのような」瞬間がいくつも散りばめられているからだろう」という言い方はなんだかうまいことまとめるなあというか本当にそうかもなあという気がした。素晴らしい瞬間がいくつも本当に散りばめられている。

 

ただ、「ジム」の次の表題作「鼻持ちならないガウチョ」は、「その晩、彼は店に集まったガウチョたちに話しかけた。おれたちは記憶を失いかけている気がするよ、と連中に言った。ま、それはそれで結構なことだ。ガウチョたちは初めて彼の言うことを彼よりもよく理解しているかのように彼を見つめた」とか、なんか触れてくるよね、心の襞に、みたいな感じでいいなと思うところもあったのだけど僕はボルヘスほとんど読んだことがないのでどんなふうに響き合っているのかとかよくわからないし、あまりこういう老人の話は惹かれないのか、全体としては「そっかー」ぐらいのものだった。(これまでボルヘスは『創造者』を読んだことがあるだけで、これはチンプンカンプンだった記憶があってそれ以来避け続けているのだけど、今度『伝奇集』読んでみようという気になったのは収穫というかなんというか)

 

表題作が僕にとってそんな感じだったので、これはまさかまずいかなーあんまり楽しめなかったりして、と懸念していたのだけど、それに続く「鼠警察」は、読み始めてすぐに「ぼくたち一族」とか「上司の何匹か」といった表現が出てきて、まあなんかあれなのかな、匹っていうのは警察を鼠扱いしているみたいな感じの言い方なのかな、とか思っていたら本当に鼠の話じゃないか!となってまず愕然として、僕はこの作品のネタ元のカフカの「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」はたぶん読んだことがないか読んでいても忘れているので、鼠かよ!なんで鼠の話を書くんですか!ボラーニョさん!という感じでかなりびっくり仰天して、わーこれはマジでそんな鼠のお話ですかー、寓話ですかー、という感じでかなりさっきの懸念ふくらむという状態だったのだけど、どんどんどんどん、いや本当に面白い、ということになっていった。リアリティっていうのはどんなものが材料でもこんなに確固たるものとして生じるものなんだなということを実感。

完全に『2666』のサンタテレサの連続殺人事件と通じるというか同じもので、変死体が上がっていくごとに緊迫感がどんどん高まって、いよいよモンスターと対面したときのあの、恐怖を巡るセリフは本当に恐ろしかった。

 

「お前は間違ってるよ。あの女は死ぬほど怖がってた、と彼は、まるでぼくたちがこの世のものでない存在に取り囲まれていて、その存在から丁重に同意を得ようとするかのように、両脇にぼんやりと目をやりながら言った。彼女の聴衆は、自分では気づいていなかったが死ぬほど怖がっていた。だがホセフィーナは怖くて死ぬどころではなかった。日ごと恐怖の真ん中で死に、恐怖のなかで蘇った。(P69)」

 

何がそんなに怖いのかわからないけどこのセリフは本当に怖いなーと。

 

そして「アルバロ・ルーセロットの旅」。これも本当に好き。これが一番よかった。やっぱり何かとボラーニョが描く小説家とか詩人が出てくる話は好きなんだろうなと思う。『野生の探偵たち』も『2666』も『通話』の「センシニ」も。あとは今思い出せないけどそういう類の話は何だかすごく惹かれる。小説の中に固有名詞なり書誌的な記述が入ってくることが楽しいのかもしれない。この作品の中にちょうど、プルーストの『失われた時を求めて』をバカンスのあいだ読んだ、読んだことがあるとこれまで周りに言ってきたため、というくだりがあるけれど、ポスト・ボラーニョ世代の旗手みたいな扱いらしいアレハンドロ・サンブラの「盆栽」にもまったく同じ挿話があり、『失われた時を求めて』というのはチリにおいては「読んでるよ」と嘘をつき、嘘を本当にするべく読まれるためにあるみたいじゃないか。そしてそれはなんだかすごく素敵なことじゃないか。

 

「フリオがエミリアについた最初の嘘は、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。読んだ本のことで嘘をつくことはあまりなかったが、あの二度目の夜、何かが始まりつつあることが、その何かがどれだけの期間続くにせよ大切なものになることが二人にわかったあの夜、フリオはくつろいだ調子の声で、ああ、プルーストは読んだことがある、十七歳の夏、キンテーロで、と言った。(…)

その同じ夜、エミリアはフリオに初めての嘘をつき、その嘘もまた、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。(…)つい去年のことよ、五ヶ月くらいかかった、だってほら、大学の授業で忙しくしてたから。それでも全七巻を読破してみようと思って、それがわたしの読書人生でいちばん大切な数か月になったの。」

 

「それぞれを『失われた時を求めて』を読んだこと――というより読んでいないこと――へ結びつけていたあの打ち明けがたい秘密のせいで、二人はプルーストを読むのを後回しにしていた。二人とも、今回一緒に読むことが、まさしく待ち望んでいた再読であるかのように装わなくてはならなかったので、特に記憶に残りそうな数多い断章のどれかにさしかかると、声を上ずらせたり、いかにも勝手知ったる場面であるかのごとく、感情あらわに見つめ合ったりした。フリオに至っては、あるとき、今度こそプルーストを本当に読んでいる気がする、とまで言ってのけ、それに対しエミリアは、かすかに悲しげに手を握って応えるのだった。

彼らは聡明だったので、有名だとわかっているエピソードは飛ばして読んだ。みんなはここで感動してるから、自分は別のここで感動しよう、と。読み始める前、念には念をということで、『失われた時を求めて』を読んだ者にとって、その読書体験を振り返ることがいかに難しいかを確かめ合った。読んだあとでもまだ読みかけのように思える類の本ね、とエミリアが言った。いつまでも再読を続けることになる類の本さ、とフリオが言った。」

 

それはさておき、この小説の最後の、小説家と映画作家の対面の場面。「鼠警察」にしても「アルバロ・ルーセロットの旅」にしても、対面とはこんなにも誰かにとって恐ろしいものなのか、という対面。すごくいい。しかしルーセロットの行動は非難されてしかるべきなのだろうか。ここなんかは残酷というよりはよっぽど親密な情景として読んでしまっていたので、そのあとに死んでしまいたいとまで言わせていることにびっくりした。

 

モリーニは、ホテルの掃除用具が詰め込まれている屋根裏部屋にいた。窓を開け放ち、ホテルを取り囲む庭園と、黒い格子越しに部分的に見えている民家の庭に見とれているようだった。ルーセロットは近づいて背中を軽く叩いた。そのときのモリーニは先ほどよりもひときわ華奢で、背も低く見えた。少しのあいだ、二人は黙って二つの庭を交互に見つめていた。(P97)

 

それからシモーヌとの関係もとてもいい。ボラーニョのこういう感じがやっぱり好きなんだと思う。通じ合う瞬間というか。

 

シモーヌに電話をかけ、状況を説明し、金を貸してほしいと頼んだ。するとシモーヌは唐突に、ぽん引きはいないのと言うので、ルーセロットは、借金を申し込んでいるのだと、利子を三〇パーセントつけて返すつもりだと答えたが、その後二人は笑い出し、シモーヌは、何もせずに、ホテルから動かないで、車を貸してくれる友達が見つかり次第、ニ、三時間で迎えに行くからと言った。彼女は何度かあなたと言い、ルーセロットも返事をするときに同じ言葉を口にしたが、その言葉をこれほど甘く感じたことはなかった。(P98)

 

そのあとの「二つのカトリック物語」も楽しく読んだ。「文学+病気=病気」はよくわからなかった。総じて結局とてもよかったし、もっともっと読みたいです。ボラーニョコレクション、引き続き楽しみ。


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