読書感想文 W.G.ゼーバルト/鄙の宿

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鄙の宿 (ゼーバルト・コレクション)

いかに踊れるか、というところが問題だと思うのだけど、この作家論で取り上げられている作家たち、ヘーベル、ルソー、メーリケ、ケラー、ヴァルザー、そして画家のトリップ、について、ルソーはもちろん存在は知っているし新潮文庫で出ている『孤独な散歩者の夢想』だけは読んだことがあるのだけど、それ以外については一つの作品に触れたこともないし、解説によればどの人もドイツ語圏では有名な方らしいけれども名前も一切知らなかった。一切知らない作家について書かれたものを読むというのは少なくとも今回の僕にとってはなかなかに難しいもので、取っ掛かりのリズムみたいなものが見いだせないためにまるで入っていけないというか、興味わかんなー、というところが大半で、要はなかなか踊れません、というところだった。

その中で例外が二編あって、それはルソーとヴァルザーのところだった。

 

ルソーについての文章は僕の中ではわりと「これこれ、これぞゼーバルトに鳴らしてほしい音」みたいなところがあるもので、時には名前を変えて潜むことまで強いられるような暮らしをしていたのかという、これまでまるで知らなかったルソーの伝記的な記述も僕にはとても面白かったし、なにせそのルソーの人生には広範で頻繁な移動が含まれているという点も、踊るということでは踊りやすいところがあったのだと思うのだけど、それよりも何よりもいいのは、ゼーバルトがビール湖に浮かぶサン・ピエール島を丘の上から見渡した時からほとんどちょうど200年前にルソーがその島に逃げ着いたこと、かつての修道院の建物が今ではホテルとレストランになっており、ルソーが暮らした二つ隣の部屋にゼーバルトが泊まったこと。保存されているらしいルソーの部屋で過ごした数時間のあいだ、「私はと言えば、ルソーの部屋にいて、過ぎ去った時代へと連れ戻されたかのような心地であった」とゼーバルトは書いている、「それは幻想ではあったが、遠いエンジンの音ひとつしない、百年か二百年前に世界中をひたしていたのと変わらぬ静けさが島をひたしていただけに、その幻想には容易に入り込めた」と。

この感じだ。ゼーバルト自身の体験の記憶と、彼がひもとく書物や資料からの記憶が響き合って奏でられる音楽、この感じが僕を踊らせるのだ。ゼーバルトが見た景色、歩いた道のりが、あれよあれよと書物や歴史に侵食されていくその瞬間のグルーヴこそが、僕を踊らせる。実に気持ちよく、体をくねくねさせながらおこなうヘンテコな踊りを踊らせる。僕はたぶんそうやって踊りたくてゼーバルトを読みたいと思っている。

 

このとき以来私は、空間も時間も超えて一切がいかに繋がりあっているかを、ゆっくりと学んでいったのだった。プロセインの作家クライストの人生と、トゥーンの醸造所で事務員をしたと自称するスイスの散文作家の人生とが。ヴァン湖の湖面に響くピストルの音のこだまと、ヘリザウの精神病院の窓からの眺めとが。ヴァルザーの散歩と私自身の遠出が、誕生の日と死去の日が、幸福と不幸が、自然の歴史と産業の歴史が、故国の歴史と亡命の歴史が。(P147)

 

ゼーバルトという書き手の姿が見えて、そして次の刹那、不気味なほどに一切がいかに繋がりあっているかを示されるとき、僕の足はステップを踏む。

そういう点ではヴァルザー論もまさにそれで、なんせヴァルザーのある写真はゼーバルトに「反射的にいつも私の祖父、ヨーゼフ・エーゲルホーファーを思い出させる」のだ。「彼が着ている三つ揃いのスーツの生地や、柔らかいシャツの襟や、タイピンや、手の甲に浮いた老人性のしみや、きれいに切り揃えられたごま塩の口髭や、両眼のしずかな表情」までもが、あるいは「帽子を手に持って歩いた」り「晴れた夏の日でもきまって傘と雨合羽を散歩に携えていった」という習慣までもが祖父を想起させる。そして祖父の写真とヴァルザーの写真が並べられる。二人は同じ年、1956年に亡くなっている。なんという不気味なダンスだろう。

 

こうした相似や、交錯や、偶然は、なにを意味しているのだろう。ただの記憶の判じ絵、ただの自己欺瞞や錯覚にすぎないのだろうか。それとも人間関係の混沌のなかにひそんでいて、生者も死者もひとしく包摂する、私たちの理解を超えたある秩序の体系が、こうしたかたちで表れているのだろうか。(P125)

 

あるいはまた、ヴァルザーの小説とゼーバルトの小説が驚くような一致を見せる瞬間。月光降り注ぐボーデン湖を渡る情景。茶づくめの身なりをした婦人との出会い、喪の行路。

 

私は常日頃、自分が心を惹かれる作家に対して自分の作品のなかで敬意を表すというか、かぶっていた帽子を少し持ちあげて彼らに挨拶するようなつもりで、その作家の作品から美しいイメージや特別な二言三言を借り受けてきた。しかしながら、すでに身罷った作家仲間を追憶するための標を付すことと、自分が彼岸から挨拶されているような感覚をどうしても拭えないこととは、天と地ほども違う。(P127)

 

実に戦慄的で実にダンサブルだ。

 

ところでここで引かれたゼーバルトの小説というのは先日読み返した『移民たち』の中の「アンブロース・アーデルヴァルト」で、彼は晩年精神病院に入り、「思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていた」ために率先して電気ショック療法を受けて朽ちていったという恐ろしいエピソードを持つ人だけど、ゼーバルトの描くあるいは取り上げる人物たちは本当にどいつもこいつも、何か「消失」への願望があるというか、「驚くべき精妙さをもって人生を回避する行動障害」とゼーバルトは書くけれど、存在から逃れたいような衝動を持った人たちばかりだ。

 

ヴァルザー。

 

彼らは書くことによって非個人化をなしとげ、書くことによって自分を過去から切り離した。彼らが理想とするのは、完全な記憶喪失の状態だった。ヴァルザーの文章はどれもその前の文章を忘れさせるという役目しか持っていない、とベンヤミンが指摘しているが、現実にも、家族の記憶をまだ描いていた『ダンナー兄弟姉妹』後すぐに記憶の流れはじりじりと細くなっていって、ついには忘却の海に注いでしまう。(P134)

 

ルソー。

 

彼自身、なによりも望んだのは、頭のなかで回りつづける車輪を止めることだった。にもかかわらず書くことにしがみついたとすれば、それはもっぱら、ジャン・スタロバンスキーが言うように、ペンが手からぽろりと落ち、和解と回帰の無言の抱擁のうちに真に本質的なことが語られるであろう、というその瞬間を招きよせんがためだった。そこまでヒロイックではなにせよ間違いなく言えることは、物を書くとは、次から次へと続けずにはいられない強迫的行為だということだろう。その証拠に、思考の病に陥った人間のうちでもっとも治癒しにくいのがおそらく作家なのだ。ルソーは若い頃だけでなく晩年パリでも楽譜を写す仕事に励んだが、それは雲のように四六時中脳裡に湧き上がる想念を払いのけるための、残された数少ない手段のひとつだった。でもなければ思考の装置を止めることがいかに困難であるかは、ビール湖に浮かぶ島での、彼言うところの幸福な日々についての描写が証している。(P54)

 

書き続けることで思考の装置を止めること。僕なんかもブログをだらだらと書くこと、打鍵を続けることはわりとセラピーみたいなところがあって、内容なんてなんだっていいからとにかく言葉を打ち続けて白紙を文字で埋めていくことによってデトックス、みたいな、止まれ、消え失せろ雑念、煩悩、みたいなところがあるのでとても「はい、わかりますよその衝動みたいなやつ」と思うのだけど、僕なんかじゃまったくわかりえないレベルのそうとうなあれなんだろうなーと。だってルソーはさらにガラスになりたい節すらあるんだぜ、と。

 

ルソーはこう語る、「ベッヒャーが断言するところでは、動植物の灰のなかには溶けるとガラスになる土が含まれており、その土からは、いかなる美しい磁器にもまさる美しい花瓶を作ることができる。ベッヒャーは極秘の方法によって実験をおこない、それにより人間がガラスからできており、ほかのすべての動物と同様にふたたびガラスに戻ることができると核心した。(…)」(P57)

 

ところでヴァルザー論を読んでいたら彼の小説をとても読んでみたくなった。

 

次から次へとすばやく移り換わっていくのがつねなのだ、ヴァルザーにおいては。場面はまばたきひとつの間しか続かず、作品の登場人物にも束の間の命しか恵まれていない。<鉛筆書きの領域>だけにも、何百人が住んでいる(…)。

登場した刹那はめざましい存在感があるのに、よく見ようと目を凝らすと消え失せている。私には彼らがいつも、ちらちら震える光暈に取り巻かれていて輪郭が定めがたい、初期の映画の訳者であるような気がしてならない。夜頃の夢に脳裡を過ぎていく人びとのように、彼らはヴァルザーの断片的な物語や胚芽のような長編を通り過ぎていって、宿泊簿に記帳もせず、到着したと思うまもなく旅立って、二度とふたたび姿を見せないのだ。(P132)

 

こんな小説読んでみたい。幸い邦訳が出ているみたいなので、いつかチャレンジしてみよう。ヴァルザー論には踊れたけれど、ヴァルザーその人の書く小説に僕は踊れるだろうか。


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