7月
2014年7月15日
何もかも恐ろしく簡単で醜悪だ、と男が言ったのを聞いたが簡単で醜悪という並びがとても好ましいものに思えたしここのところは自分でも驚くほどにスタバに行かなくなって喫茶店か、美味しいコーヒーを飲みたくなったら焙煎屋とかコーヒースタンドとかに寄るような流れが私の中でできていることもあり久しぶりにスタバに行ってみたところ隣に座っていた若い女がもうほとんど中身のなくなっている飲料を執拗にすすったがそれは数分続いて、一度だけなら最後まで飲みたいのだねと思うチャーミングと言ってもいい音だったしそれが繰り返されるうちにおそろしく簡単に醜悪な音になって、視野の端で見えるその女の姿は右手にスマホで左手にカップとストローと口がひとつづきにつながっている生物のようだった。その夜は黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』を見て私は悪い奴なのかどうかはわからないにしてもよく眠る男なのでずいぶん遅くまで寝て起きたときには憂鬱が支配したような気がそこここに漂っていた。夏休みを過ごしている。
市営球場や県営球場では日々高校野球の予選大会がおこなわれているらしく、駅に向かって自転車を漕いでいる道中で友人に出くわし、お、じゃああとで行くわ、と言った。その感じが私をパーマネントなバケーションの気分にいとも簡単にいざなったのだし、うだるとまではまだ言えない暑さの中にもしるしのようなものがやはり見え隠れし、昼ご飯は母が作った冷たいうどんをすすったりもした、午後は停滞し、ろくでもない子どもたちの声が空を伝ってくる途中でぼやけながらも聞こえてきた、それは完全に夏休みのものだった。あと十日もすれば、あるいは二週間か、その程度の時間がすぎれば、近くで花火大会も執り行われるだろう。そうすれば夏が完成するし、もしかしたら市町村合併などの影響でその花火大会はとっくになくなっているのかもしれなかった、だとしたら市民プールに通う理由はそもそもなかった。
金融機関から金を借りるための創業計画書を作成したりしながらパーマネントのバケーションの夜はただただ長いので本を読んだり映画を見たりしている関係で最近はジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の下巻を読み終えて贈与というものに興味があったので内田樹と岡田斗司夫の対談『贈与と評価の経済学』を読み、それからヨアン・グリロの『メキシコ麻薬戦争』を読んだ。いずれもたいへん面白く、岡田斗司夫の本は初めて読んだのだけどこの人の言うことをもう少し聞いてみたくなったし、現代企画室はやっぱりいい仕事をされると麻薬戦争の実態を追いながらたいへん感心した。麻薬戦争とても大変そうだ。アメリカ人が麻薬をやめるか、アメリカで麻薬合法化されるかしかメキシコでろくでもない、そして半端のない規模の殺戮がやむことはないような気がした。ここ数年でメキシコ軍から10万人が除隊しているとのこと。だいたいが麻薬カルテルに移籍した模様。そりゃ、とんでもないことになるわと。さらっとグァテマラ軍を襲撃、みたいなことが書かれていたけど、どこかの国の軍隊を民間の組織が襲撃するってどう考えてもおかしくて、それにしても、おかしくて、という、総じて言えるこの軽い感覚はいったいなんなんだろうとは思ったし、時おり自分の中に感じる残虐なものへの嗜好みたいなものはどのように処理をすればいいのかわからないところもあり、別段それに悩むとかはないしまあ人間そんなものだよなと思いはするし、ふいにblog del narcoとかで検索して動画を見に行ったりしてしまったこの感覚の根元にあるものはどのようなものなのだろうか、私は動画を途中でやめた、なんせ泣きわめく人の首に刃渡りがたいへん長い刃物をすーっと入れるのを見せられたからで、このあとにそれがどのように展開するかなど見なくてもわかるし、見たくないと、いざ見始めてみたら思ったからだったしそれは朝、起きたすぐあとのことだった。
今朝に関しては悪い夢を見た。人がそれなりの数あつまっているそう気張らない場所で私は何かを読み上げるか何かした、それは私にとってはまっとうな感覚の発言で、というか、私の常識レーダーみたいなもので言えば常識に分類されるものだったので、その発言が強い嫌悪と反発を招くとはまるで想定していなかったからすごく戸惑った。自分のバランス感覚のようなものを私はわりに信用しているところがあり、世間的にどこまでがオッケーで、どこからがNGなのか、なぜかある程度は察知できると思い込んでいるのだけど、だからこそそれが外れていたと知る夢のその時間は強く私を脅かすものだし昨日読んだ何かのブログ記事への罵倒するブックマークコメントを読んでその夢が見られた。世間的なものとの断絶に私は怯えながら眠ったということだったし、映画に関しては最寄りのツタヤでちょこちょこと借りては返しを繰り返しながら見ている、今月に入ってからだと園子温の『愛のむきだし』を久しぶりに見て、ジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』、ジョン・カサヴェテス『フェイシズ』、黒沢清『リアル』、ダニエル・エスピノーサ『デンジャラス・ラン』、黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』、そして今晩やはりカサヴェテスの『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』を見て、ベン・ギャザラがまさかこんなに格好いいとは思わなかったしどの顔も、それは『フェイシズ』もそうだったけれどもどの顔も凄まじい強さを持っていて、今月見た映画はどれも面白かったし私の人生を脅かすことはきっとなく素通りしていくのだろうと思った。カサヴェテスさえも素通りしていきそうなところがこの悪い流れをよく象徴している。丁寧に見たい、丁寧に読みたいと思うけれども、何もかもが素通りしていく。
週末だったのでキャンプ的な催しに参加してきた。悪い夢を見たのはその週末の名残で、集団の中で私の見せてはいけないものが見られてはしないかをどこかで怯えていたりしていたということだろうかとも思ったしきっとそうだ。
それに私にとってキャンプファイアーというとクラウドファンディングの方をイメージしてしまうが、行ってみると実際に薪などで火が焚かれて、そこで燃え上がる炎はすごくよいものだった、私は父母の立派な感じの車を借りて向かってナビが無意味な正確性を発揮するのを数時間にわたって見た。たくさんの人がいて、たしか半分くらいは初めて会う人だったし、そうなることはわかっていたから人見知りの私はどういう気分で過ごすのだろうと思っていたのだけど二日間、それは素晴らしく気持ちのいい楽しいものになったので安堵した。安堵した、というのがたぶんもっとも先に出る感覚だろうと思ったが、私は人見知りが強いというかどういう態度で人の輪みたいなものの中に入って行ったらいいのかわからないタイプなので今回も笑顔をこわばらせながらなんとなくそばにいるみたいなことになるだろうかなどと懸念していたのだけど、楽しく、そして楽に過ごした。それは私の成長ではなくて、めぐり合わせとかたまたまとかそういったものなのだろうと思って昨夜はカレーを食ってそれがうまかった。そばもうまかったし温泉もあたたかかった。それらは個別に金を払って食べたり入ったりしたもので、宿泊地で食った人々の作った食べ物のどれをとってもうまかった。私は飲食業を志す無職でありながら料理を作ることに対する怯えみたいなものがあるらしくて洗い物を自分の仕事とすることでそれを回避したのだったか?あるいはそれも違うかもしれないし、30近くになっても川でおこなう水遊びみたいなものがこんなにも気持ちのいいものだとは知らなかったし、それはこういうのがリアルで充実しているという感じかな、と思ってそちらがわに行った自分を祝福した。たとえその週末だけだとしても私は自分がリア充的な過ごし方をしたことが知れてうれしかった。いやそんなことではなかった。決してそんなうれしさなんかではなかった。ただ単純に楽しく気持ちよく楽だった。それが大切なことだった。
久しぶりに車を運転していると、日が暮れていって次第にやわらかいピンク色に空が染まっていくのが知れた。車の運転席から見る外の景色はアーバンという感じがして、それは上に首都高が走っていたからかもしれないけれども、アーバンという感じがして、夜、家に向けて一人で、アーバンな道を走ったしそれはいいことだった。人の役に立ちたい。
と昨夜書いて、書き終えて外に煙草を吸いに出たら書いたことを忘れて寝た。