7月

book cinema text

ケイシー・アフレックの『容疑者、ホアキン・フェニックス』を見たのは先ほどのことで、私はホアキン・フェニックスが今もっとも偉大な俳優なのではないかと思っている節があるので見てみたのだけれどもなんとも苦しい気持ちになるものだった。フェイクドキュメンタリーだということはなんとなくは知っていたのだけど、クラブでのライブの場面やトークショーの場面、というかその場面での人々のリアクションを見ているとなんとも言えない苦さがあって、そんなに人の挑戦をせせら笑うのは楽しいかと、憤りのようなものを覚えた。私たちがお前に与えている役割はそれじゃないだろ、という嘲笑の傲慢さに本当にうんざりした。役割や社会通念やステレオタイプから自由になりたいと願っている人間たちがいとも簡単にゴシップに群がるくだらない蝿になる様に私は吐き気を催すような気持ちだった、というふうにわりととても嫌だなーと思いながら見ていたのだけど、もしかしてトンチンカンな見方をしていたのだろうかとも。一人でヒートアップしちゃった、と思ってコンビニに歩いた。

 

物件の契約が終わり、内装屋さんとの契約もほぼ終わり、来週から多分工事が始まるというところで、着工までの数日のあいだ暇を持て余している私はフェイスブック等を見るたびにフジロックに関する写真付きの投稿が目にとまりそれなりに羨ましいし、一方でそこまでうらやましくないという気持ちもある気もして、少しずつ私の人生は苗場から遠ざかっているのかもしれない。15の歳から10年連続で行き、店を始めて2回か3回かパスし、去年久しぶりに行き、これまでは苗場でなければ感じられないものがあると思っていたのだけど、もしかしたらそういうわけでもないのかもしれない、と思い始めたのかもしれない。今月行ったキャンプ的なものの心地よさで、苗場の心地よさの大半がもたらされるのかもしれない、と思ったのかもしれない。必ずしも音楽は必要ないのかもしれない、と思ったのかもしれない。わからないけれども、それでもいささか「いいなー」とは思ったので、昨日はわりと広い公園に行ってキャンプ用の椅子を出してビールを飲みながら読書にいそしんだのだった。ここはグリーンステージ、と思いながら。

 

日が少しずつ傾いていくなかで、私は大きな木の下でずっと本を読んでいた。ときおり煙草を吸い、ビールを飲み、ビールがなくなったら家で淹れて水筒に入れてきアイスコーヒーをぐびぐび飲み、そうすると少し離れた池で家族が楽しそうに過ごしているのが見えた。金曜日の午後5時過ぎの話だ。茶髪の若い妻と、茶髪で黒いTシャツで日焼けしていてちょっと強そうな夫と、二人の小さい子供が池のそばにいて、父親は煙草を吸ったりしているらしかった。どんないきさつで今ここに彼らはいるのだろうか、と思うと素晴らしく愛おしいもののように思えてきた。「公園行こうよ」「そうしようか」って、素晴らしくないか!素晴らしいじゃないか!なんて素晴らしいんだ!と私はたいへんうれしかった。ローソンでLチキを買って食って帰った。

 

『ドン・キホーテ』の2巻を読んでいるあいだに、昨日立て続けに、友達から借りた樋口毅宏の『テロルのすべて』を読み、昨日本屋で買ってきた阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』を読んだ。久しぶりに日本の小説を読んだ気がするけれども、阿部和重はやはりすごくよかったし、初めて読んだ樋口毅宏も、テロしちゃうんだなー、というところですごく「どうなるの?どうなるの?」という気分で読んだ。今はやはり昨日買った樋口毅宏の『日本のセックス』を読んでいて後少しで終わる。「どうなるの?どうなるの?」と思いながら読んでいる。この2冊で、たぶん樋口毅宏の小説を読むことは終わりになるような気がする。面白くて、それこそ煙草を吸いにベランダに出るときやトイレに行くときすら持って続きを読もうとする具合に面白いのだけど、この2冊で終わりにするだろうという気は変わらない。これはなんなんだろうか。結局、「どうなるの?どうなるの?」で読む読書にはあまり惹きつけられないということなのかもしれない。小説の醍醐味は決してそれではないはずだ、と思っているのかもしれない。いずれにせよ、昨日今日で読んでいる、日本人がアメリカに原爆を落とす小説、アイドルを付け回す人たちの小説、カンダウリズムに衝き動かされた人たちの小説は、どれも面白く、日本の小説もいいね、という気になった。ドン・キホーテはしかし狂気をいかにして捏造するかということに執着するという狂気を私に見せつけてきて、それは滑稽でありながらも凄みを感じないわけにはいかなかった。

 

今日は高校野球を見に行った。あいにく県営球場でビールは売っていなかったので水やアクエリアスを買って飲んだけれども、ひどく暑い日で、座っているだけでも汗がどんどんと流れていった。大宮東対春日部共栄のその準決勝の試合は、とてもいい試合だった。私は何も起きていない1回や2回から泣きそうになりながら見ていた。大宮東側の1塁側に座っている私の位置からは春日部共栄の応援団の姿が見えた。補欠の野球部員、ブラバン、そしてチア。その一角の発する動きや音が私をことごとく打った。特にチアの、ボンボンを持った両腕をくの字に曲げて腰にあてて直立している、みんながそろって直立しているあの感じ、様式美めいたその感じにすごく感動した。なんだかすごいものを見ている気がした。全員が必死に何かを応援している、そして全うしなければいけない役割を必死に演じている、というその光景は、グロテスクでありながら、あるいはグロテスクであるからこそ、素晴らしく高貴なものに思えた。誰かを心底で応援するというその姿勢は、なんと気高いことだろうと思えた。そういう瞬間を持ち得た彼らの人生が豊かになることを望まないわけにはいかなかった。

誰かとともに全力で何かを目指して、誰かとともに全力で悔しさを味わうという、そんな体験をできる彼らを私は心底うらやましく思った。とんでもねー場所に立ちあってるな、と思った。

 

点の入らない投手戦が続いたが、大宮東が、むしろ攻勢だった。どの回だったか忘れたが、打球が外野のあいだを抜け、バッターランナーは2塁を蹴り3塁を目指した。完璧な連携と完璧な送球で、バッターランナーは3塁でアウトになった。その次のバッターがヒットを打った。2塁でとどまっていれば生還できていたかもしれない。その次のバッターがライトに飛球を放った。ファウル、との判定だった。周囲の人のリアクションを見る限り、微妙な判定だった。フェアの判定だったら生還できていた。他の回、スクイズがあった。私の目からはランナーの足が先に入ったように見えたが判定はアウトだった。セーフであれば、それはあまりに大きな1点だったはずだ。スクイズももう少し打球を殺せていれば。大宮東はつまり、決定機を不運によってか不手際によってか逃し続けて9回表の春日部共栄の攻撃を迎えた。あっという間に3点が入った。3点目はエラーによってだった。その裏、ヒットやエラーが重なり、ノーアウト満塁のチャンスを迎えた。1点を返した。アウトカウントは1で引き続き満塁。単打でも2塁ランナーが還れば同点、ひとつ間違えば逆転サヨナラという場面。代打で入ったバッターがショートにゴロを打った、捕球、送球、送球、ヘッドスライディング。試合終了だった。敗者にとってはすべてがあの時のあれがああであれば、ということになり、勝者にとってはすべてが万事オッケーになった。もちろんすべての試合がそうなのかもしれないけれども、本当にどちらに転んでもまったくおかしくない、本当に残酷な試合だった。

 

ということですごくいい試合を見てきました。


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