2:21 – 3:05
2012年3月30日
里芋を薄味で煮ておいた。少ししょっぱくなったかもしれないので扱いに注意したい。薄味で煮ておけば、片栗粉をまぶして揚げ出しにも簡単にできるし、炒め物に使ってもいいし、煮物に流用したっていいわけで重宝する上に、なんせ、忙しい朝の時間で里芋の皮を剥く作業はできるだけやりたくないから休みの日の夜にやってしまうことは正解のはずだった。そもそもは、ストックのなくなったオムライスの仕込みをしに休日の夜にわざわざ店に来たのであり、8割方終わったので帰ってきた。オムライスは牛肉を赤ワイン等々で丸一日以上はマリネしておきたいから事前の計算が肝要なのだけどすっかり計算違いをおかしたらしく昨日一日切らしてしまっていた。別段オムライスで売っている店のわけではないからそれもまあ問題なかろうという気持ちがある一方、やはりそこはしっかりしなければいけないとは、今のところちゃんと思えている。だから仕込んだ。肉を炒めて、鍋にぶっこんで、野菜を炒めて、布巾に包んでぎゅうぎゅうにエキスを絞りとる。それからひたすら煮てあといろいろ。マリネやエキス絞りがいったいどのような効果を味にもたらしているのか、実感としてはまるでわからない。ただ店を始めて半年以上がたって、やっとオムライスを堂々と出せるようになってきたのは喜ばしいことだった。
休みだったので昼は近くの、名店というか人気店というか、そういった感じの食堂で飯を食い、おいしいけれど別に感動するわけでもなく、タリーズに行って日暮れまでまったく集中しない状態のまま作業や読書をおこなっていた。なんというか、まあ、これは、だから、というかだからというわけではないんだけどだけれども、私にとってはというか私がありたいあり方を実現するためには必要な段取りだと思うようにしていて、どれだけ無意味なことを打ち続けようが、打鍵を繰り返すことはきっとさらなる打鍵を生み出すはずだと思っていて、だからこそ今の、たった今のような状態、特に書くこともないけれども何かを書いて吐き出さなければ気が済まないというか寝たくないという状態が実際に出てきているのであって、それがさらに推進されることによって(岡山弁なのか何弁なのか知らないが「ぶりがつく」と言う)、何かしら別のモードへ移行することが期待され、そうなることで、初めて、やっと、自分の、何かを、こう、満足のいく形かいかない形でかはわからないにしても、何かを、こう、何かを、何か、何かをできるのではないかと、そう思いたい。
タリーズでは、作業に疲れたというかもうできないとなったあとに昨夜読みだした『新潮』掲載の柴崎友香の新作「わたしがいなかった街で」の続きを読んだ。『寝ても覚めても』も異様だったけれども、というかここ数年の柴崎の作品はどれも異様だけれども、まあ本当に怖ろしいことになっている。怖くなって少し泣きそうになりながら読んでいた。
映画を見た。映画を見て、店に行った。本当はそのあとの回のラース・フォン・トリアーの『メランコリア』も見ようかと思っていたのだけど、11時を過ぎてからオムライスの仕込みを始めるなんて無茶だと判断したためやめて、その判断は正解だった。そもそも、トリアーにワクワクしたことなんてこれまでないのだから、見る必要すらないはずだった。でも日曜の晩にまだやっていたら見に行くかもしれない。地球が滅亡する日の話と聞いて、鬱屈した絶望的な話であるならば、今ならば見たいような気がしているのもまた事実だからだ。
私は、と、今ブログで私は「私」を使っているが文章を書く時の感覚は今でもあいかわらずに圧倒的に「僕」で、だけど前のブログからずっと「私」を用いている。その前のブログまでは「僕」だった。「私」を使い始めたのには理由らしい理由があったのだけど今のこのブログにおいては別段「僕」でも構わないはずだが、なんとなく「私」を継続している。ツイッターやフェイスブックではだいたい「僕」で、ブログでは「私」で、この違いは有意なものなのかどうか、それはよくわからない。何を意識して「私」でいるわけでもないのだけど、ただの慣れだろうか。それとも、「私」でいることで私から少し離れられる、文章の責任を私ではない「私」に負わせることができるとでも思っているのだろうか。わからない。
先日フェイスブックで「友達」であるところの大学の後輩の人がシェアしていた記事の一部分(その「友達」が引用していた)が頭から離れない。最近のモードと相まって、脳天を揺さぶってくる。
ソーシャル死ね。ソーシャルゲーム死ね。ゲームを返せ。ゲームから出てけ。 – 真性引き篭もり
僕等にとってビデオゲームは何よりも神聖なものだった。それは、ビデオゲームという名の聖域だった。人間という邪悪な生き物に出会うことなく、人生を楽しめる唯一の場所だった。この憎たらしい人生の、呪われた醜い毎日の中で、生きている事を感謝する為の、唯一無比のツールだった。ビデオゲームを遊んでいる間だけは、自分が人間である事を忘れられた。
ボヴァリー夫人は私だと言ったフローベールよりもきっとよほど強いリアリティで何百の人がこの文章に共感を寄せて自分を投影してブックマークなりツイートなりシェアなりをしたのかもしれないしバズってたからなんとなくブックマークなりツイートなりシェアをしたのかもしれないけれども、たしかに、「ビデオゲーム」を「小説」あるいは「映画」に置き換えれば、そこに現れるのは私というか僕というか俺だった。それはもう完全に俺だった。