8月

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今日は家から出ていないので推測の域は出ないのだけど近所で夏祭りみたいなものがおこなわれているらしく、暗い空を伝って盆踊り的な歌やマイクを通した男性のアナウンスが聞こえてくるし今は踏切の音がした。今日もそれなりだし昨晩もそれなりに、そしてあれは先週の火曜あたりだったか、とても寒い夜があって、夏真っ盛りのはずのこの時期に寒さというものを感じてしまう日が一週間のうち3日もあると少しばかり不安にもなったし特に火曜日は、不安を越して一気に切なさにやられてしまった。覚悟していない中で訪れた寒さに私は抗う準備もなく、キラキラした60デシベルくらいの町に一人たたずみ、やばいやばい、と思った。

 

その週は、お盆とのことだったので高校時代の友だちと飲む日と中学時代の友だちと飲む日があった。高校時代のその友だちとは半年か一年に一回くらいはずっと会っているので感慨は特にはなかったのだけど、中学時代の友だち二人と飲んだときも特に感慨はなかったというわけでもなかった。

一人は中学と高校が一緒で大学はキャンパス違いという方で、一人は中学が一緒で、卒業するまで知らなかった気がするけど大学がキャンパス違いだった方だった。後者の実家が岡山にあるとのことから何で知ったのだったか、店に来てくれて、初めて来てくれたときは久しぶりすぎたし中学時代に仲が良かったわけでもまるでなかったのでびっくりしたというところだったのだけど、それからも帰省のたびぐらいの感じで来てくれて、この春くらいにも来てくれたときにまあ今度飲もうかみたいになったというところから今回そのような形で飲むということがおこなわれたわけだったのだけど、そういうことはとてもいいことだと思った。

 

私はその友だちのことを、中学時代も親しくなかったし大学時代も関わりがなかったこともあり、ほとんど何の属性も持たせないで認識しているところがあるらしく、もちろん飲んでいる中では中学時代の話などもあれこれと出てはいるのだけど、あれは一体なんだったのだと言われればなんだったのだろうというふうに言わざるをえないけれども、そんな話がひと通りされたあとに大宮駅周辺のことが話題として挙がり、彼も大宮駅周辺をよく知ったようなしゃべり方をしているので「あれ、大宮なんで詳しいの?」と聞いたのだった。

酔っていたとは言え、その私の錯誤は少しばかり気持ちがいいものですらあった。なんらのフォルダーに整理することなく人と接するというのは、それはとてもプレシャスなものではないか、と私は、私だけ一人その場で「うわーこれプレシャスー」と思って喜んでいた。

 

あきらかな流れの分断を経てのとても久しぶりという瞬間はいつだって、もしかして人生ってすごいものなんじゃないのか、という気に私をさせる。

それはこんにちわ、はじめましてハロー、よりもずっとすごいことのようにいつだって思える。

 

だからいずれの夜も楽しかったしそれ以外の晩については誰もいない家で飯を食ったり飯を食わなかったりしていた。亀田製菓の「堅ぶつ」という揚げ餅を夕食としたこともあって、今日は一日中事務的な仕事とか荷物の整理とか部屋の掃除とかをして勤勉な感じで過ごしたわけだったしこの3日間は酒を飲むこともなく、マルコ・ベロッキオの『眠れる美女』をツタヤディスカスでずっと借りているのだけど今月に入って一気に映画を見る時間をうまく捻出できないというのは大嘘で気分とかタイミングが乗らないので見られず、だから『眠れる美女』もずっとずっと放置されている。8月頭に家に届いたのではなかったか。イメージフォーラムで『イーダ』と『ドライブイン蒲生』を見たいのだけど、どこかで私は向かうのか。

 

金はいつだって大切だと思うし、無収入の身だとお金を減らしていくことに対する恐れがあって、そのときに映画館で1800円というのは私にとってわりに大きなことらしい。これは不思議なもので、本を買うことは私はさし控えてはいなくて、本1冊1800円くらい掛かることなんてザラだけれどもそれは全然どうってことがない、飲みに行って5000円とか使うのも問題ない(でも「寿司にする?」と言われて「一晩5000円くらいにおさめたいところなので居酒屋で」とは答えたので5000円くらいにはおさめたいらしい)、でも2時間の映画1800円に対しては、どうも遠くなるみたいだ。

いやこれはお金の問題ではない。お金の問題であるならば家では7月と同じようなペースで見ているはずで、家でもまるで見ないということは2時間という時間枠を今なんでだかうまいこと持てない、というところなのだろう。たしかになー、そうかもしれないですねー、と思いました今。なんかわかるー、その感じわかるー、と思いました。2時間ぐらいぼけーっとしていたらすぐに経っちゃうしそうやって時間をゴミ箱に捨てるみたいなことはいくらでもしているのだけど、「いざ、2時間」という感覚が今はあまり持てないらしい。常に、店に向けた何かを考えなくちゃ、その準備というか気構えを持っていなくちゃ、みたいな部分があって、だから、読書であれば、何か考えたこととかが現れたらすぐに本を置いてノートに向かうとかパソコンに向かうとかがしやすいけれど、映画だとその中断に対する罪悪感とか自己嫌悪とかが生まれるので、

 

ということなので私は映画に対しての方が義理堅かった、という結論が出ました。本はいつ放ってもいい、と考えている、ということでした。

 

果たして事はそんなに単純だろうか。

 

エレナ・ポニアトウスカ『トラテロルコの夜』を読んだ。佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット』を読んだ。伊藤洋志監修『少商いのはじめかた』を読み始めた。ということをFacebook等のところで書いて、私は吝嗇で流れ消えていくのがもったいないと思ってしまうのでここにストックするために貼り付けとく。どんなに些細なことでも、私はなんというか、書いたことをストックしておきたいと思ってしまう性分で、これはもうなおしようがないことはないのかもしれないけど特になおしたい気もしない。

 

「エレナ・ポニアトウスカ『トラテロルコの夜』を読んだ。1968年10月にメキシコのトラテロルコ広場に集まったデモの学生や一般市民に対して、政府によって動員された軍隊が銃撃して数百人を虐殺したという事件についての、たくさんの証言から構成されたコラージュ的ルポタージュ。

最近読んだり見たりしたものの中でも群を抜いて「ひでーなーこれ…」という感想。どう見ても丸腰の人々や逃げ惑う子供まで軽々と殺されたみたいで、拘束後の拷問とか見ていても人間が持つ嗜虐性って天井知らずだなーと。人間ってここまで非道になれちゃうんだなーと。善人とか悪人とかの問題ではなく。

「社会風紀の紊乱」とかでしょっぴく警察、国民との対話に応えようとしない政府、何も報じようとしないメディア、みたいなところで、なんか重なるところあるんじゃない?というか、無知ゆえの心配だろうという自覚はあるけれど、日本ではこんなふうにならないといいな、と強く思いました。」

 

「黄色い本を2冊買って昨日今日と読んでいる。かつてはただの文学青年だったはずなのになあ…と思いながら、まあ必死で生存していかなきゃいけないし、しょうがないですよね、ありですよね、と言い聞かせつつ、単純に楽しくもあり。

佐々木俊尚の『自分でつくるセーフティネット』は著者のメルマガを購読している(!)ためか特別目新しい内容はなかったけど、どんどんパブリックな感じになる社会なんだし、いい人であると何かと便利になるはずだよね、という内容で、そうだよなあと。負担ない範囲で人に何か与えられる人になれたらいいね。

最近のツイートでも冷笑的であるより前向きの方がいいよねみたいなのがあったけれど、本当に共感。ネット見るたびにささくれだったり誰かディスって溜飲下げたりしてもバカみたいだし。みんながみんないい人になったらそれはそれでやっぱり息苦しいだろうけど。

『小商いのはじめかた』はまだ読み始めだけど色々な小商いの事例があって読んでいて心地いいしよさそう。元手なしで店とかとてもナイスだなあ、普通に金かけちゃってるよ…と。読んでいたらふいに「これは儲けになるかも…!」みたいなこと思いついて電卓叩き始めたりした(ゲスい。いやゲスくない)」

 

夜が来るたびに叩きのめされたような気になるというのはあながち嘘ではなかったし、両親の会話をぼんやり聞きながら夕飯の皿の洗い物をしているときは目をぎゅっとつむりたくなるというのも本当らしかった、とのことだった。明日からまた店を作ることや金を借りることに力を尽くしたい。


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