10月
2014年10月27日
1ヶ月半ぶりくらいにちゃんと休日という日を過ごすことになったため私は友人の結婚パーティーに行くのに自転車に乗った。それから今月は本も全然読んでいないし映画に至ってはまるで見ていないので先日ボラーニョの『通話』を読み終えた。今月はこれで2冊読んだことになり、もう1冊はアレホ・カルペンティエルの『失われた足跡』だった。『通話』は再読というかコレクションで刊行された改訳版で、大好きな短篇集ということもあってわざわざ買うことにして買ったため読んだ。アマルフィターノ、サンタテレサ。いたるところに『2666』へとつながる徴があり、いたるところにというのは言い過ぎだった。もっとも好きな短編を挙げよ、と言われたら私は今であればボラーニョの「センシニ」ですと答えるであろうことはその通りだが、この短篇集はどれを取ってみても本当にあらゆることが凝縮されているようで、どう改訳されたのか、翻訳の読み比べのようなものに私は興味は今はないからわからないけれども、言えることはいずれにせよ素晴らしい短篇集だということだった。特にびっくりしたのは「ジョアンナ・シルヴェストリ」で、こんな呼吸の文章だったか、と息をのんだ。圧倒的に畳み掛けられた。パトカーがパトカーらしからぬサイレン音を引き延ばしながら通っていた。その道をパトカーとは逆の方向に行けばすぐに甲州街道で、そこをずっとまっすぐ進んだら今日の結婚パーティーの開場だった半蔵門についたというのが私の理解だったがそれが正しかったかどうかはわからなかった。せめて体を動かしたいというのが私の昨今の欲求であるらしく、昨日は三軒茶屋まで自転車で走ったが片道20分から25分といったところだった。甲州街道を西に進み、環七を南に下り、世田谷通りを少しだけ東に進んだら到着したというのが私の理解だった。一週間ほど前にも三軒茶屋まで行ったが、そのときは下北沢などを通りながらただ南下した形で、アップダウンの激しさに参ったところだった。そう友人にこぼすと、大通りを通った方がいい、と教えてくれたため昨日はそうしたのだった。そして今日は半蔵門に行く前にジムに行き30分ほど走ったためシャワーを浴びたのだった。そうやって走っていると、ジムのマシーン上はまだしも、自転車で町を走っていると、私は今夜『ジャージー・ボーイズ』を見に行ったことも忘れて自分がまるでシティ・ボーイになったような感覚に陥るのだった。それはこれまで東京にしっかりと住んだ経験のなかった私、お上りさんとしての私としては致し方がないことだったし、スラックの「東京23時」が脳裡に響き続けることも、しかたのないことだった。首都高の光。私は首都高の光のそばに今いる、それは不思議といえば不思議なことだったし暮らす場としての東京なんて私はてっきりフィクションの存在だとばかり思っていたのだったから。ニューのジャージーで生まれて発砲事件があったため日本に引っ越したのはOMSBだったか、ブラックスモーカーからのビートアルバムはもう発売されたのか、私は今はっきりと何かをわかることはないけれどもジャージーのボーイズたちは悲喜こもごもで、移民の子どもたちだったらしかった。イーストウッドがこんなに自由に見える演出をするとは、と私は度肝と呼ばれるあたりを一息に抜かれたのだったし、カメオ出演もさることながら、いくつかの場面でヒッチコックみたいだと思いながら、何よりもその大らかな自由さはしかし本当に大らかなものなのか、自由さなのか、わからないながら、苛酷で不気味とも言いたくなる自由さらしきものにあっけに取られ、歳を重ねるということがこの自由さを獲得していくということであるならばとても希望の持てることだと思ったのだったし、最後の10分ほどだろうか、あれは一体なんだったのだろうか、役者たちの生々しい停止を下からとらえたあれらはなんだったのか、それが明るいラストだったのか、ほとんどわからないまま私は衝き動かされるように泣いたのだったし、昼間は新郎のお父さんのこれまで見た中でもっともファンキーな挨拶というよりは演説に近いものに私は大いに感動してそこでも泣いたのだったから泣いてばかりの一日だった。君たち若い人たちががんばる番だ、私たちは君たちを後押しする役柄だ、君たちにはなんだってできるんだ、という朗々とした声はただただいいものだった。CDを出しているらしいお父さんは一曲歌った。若い私たちは大いに盛り上がった。それは端的に言って美しい場面だったのではないか。地下から這い出た私は昼間から飲んでいたため早々に眠くなったため再び自転車にまたがり、帰って寝たのだった。ちゃんと起きられるとは思っていなかったがちゃんと起きられたのでレイトショーを見に再びチャリにまたがり新宿ピカデリーに向かったのだった。なぜなら私は新米のシティ・ボーイだからで、初めて入ったと思しき新宿ピカデリーは白白としてきれいな場所だったし、レイトショー料金を想定していたから1800円と言われたときは心臓が止まるかと思うくらい驚くということはなかったがいささか驚いてしっかりと1800円を支払って映画を見る権利を買ったのだったが、東京にはレイトショー料金というものがないのだろうか。11階に上がりしばらくすると映画が終わり、突き指をしたこともあって濡れた道路をしゃーしゃー言わせながら帰って、鶏とカブの葉の照り焼き納豆丼みたいなものをこしらえてみょうがと椎茸と豆腐の味噌汁とともに食べたがボリュームがあり、網野善彦の『無縁・公界・楽』を読みながら私は眠ることになるが仮眠の際に見たのはトンネルの中を走る夢だった。長時間露光をした写真みたいに光が尾を引いていた。