3月
2015年2月15日
昨夜はホアキン・フェニックス見たさに『her』を見てきた。ホアキン、ホアキン……と日々思っているわけではないにしてもホアキン・フェニックスこそが最高の俳優ではないかと思っている節があるので見たかったので行ってきたわけだけど、もちろん節々で「ああ、ホアキン……!」というところはあったとは言え、私としてはもっとホアキンの顔をじっくりと見たかったといういささかの不満が残りはした。その一方で止めどなく涙を流し続けてもいた。
私をしたたかに打つポイントはあれこれとあったけれども、リアリティなんて何に対してでも生まれうるわけで、生まれさえすればそれはバーチャルとか関係なくて誰かにとってのリアルなわけで、感情を動かすかどうかだけがリアルさの線引きのわけで、だから肉体を持たないコンピューターに恋をするなんていうのはまったくもってありで、そのありな感じを(多分)否定せずに描き切ってくれていたところが私にとっておそらく最もよいところだった。デートでケラケラ笑いながらくるくる回る運動こそがリアリティのダンスと言うんだよ!と。スカーレット・ヨハンソンのかすれた笑い声につられて笑っちゃうあれこそが親密さの形なんだよ!と。そういったあたりに大変つよく感動した。最後がよくわからなかったのだけど、否定していないんだよね、あれは。やっぱりヒューマンだね、みたいな手紙だとか屋上なんだろうかあれは、違うよね、と思っているのだけどどうなのだろう。もしあれがコンピューターのおかげで人間らしい感情を取り戻せました、やっぱり人間、っていう手紙だとか屋上だとしたら、私はすごくさびしいのだけどどうなんだろう。そしてまた、どうでもいいけれど、OSなきあと寄り添ってみせた二人は穏やかそうだからいいけれども、きっとあのあと多くの訴訟が起きるのだろうなと思った。大切な大切なパートナーを奪われたわけだから、すごい精神的なダメージを受けました、というのはとても多くあるだろうな、と。昨日今日と変な酔い方をしてしまって頭が痛くなったり吐き気を感じたりして、どうしたのかなと思っているのだけど夜はアイスコーヒーを淹れて飲むし、よく胃に膜を作ればみたいな話があるので今晩に関しては帰ってからカフェオレを淹れて飲んで、後からでも大丈夫ですか?と問うたものの時間の経過とともに薄ぼんやりとした頭痛等は遠のいていく、それを確認して今に至る。ここのところ立て続けにというほど大したことではまるでないのだけど少しずつ料理のリハビリを、みたいな感覚があるらしくて、春季キャンプみたいな感覚だろうか、キャンプ前の自主トレだろうか、体をならしていかないとね、というところがあるらしくてパソコンの横のメモパッドには「とり パクチー トマト レモン スープの材料」とある通り先日に関しては友だちの家に行ってカオマンガイとナスの揚げ浸しとトマトの黒酢生姜和えみたいなものとスープを作って振る舞うということをおこなった、変な酔い方をした昨日についてはグリーンカレーを作った、先日外で食ったカレーに塩もみ野菜が乗っていてそれが心地よかったのでいささかも私は世界というか世間というかそういったものに屈する必要を感じないわけでもなく実際銀行というものの脅威を感じてどこまで媚びたらいいのかと考えてしまうわけだけど、一方で二日続けてどこかから小気味いい卓球の打ち合いの音が聞こえてきたのは私の頭の中で発生した何かによるものだったのか。区役所、銀行、親、金せびっているあいだにどんどんと通帳の残高は減っていって私は可能ならば小気味いい程度の稼ぎを得ながら安心して暮らしたかった。と言いながら、まるでうんざりしない。全然どうでもいいしどうとでもなると思っている。このあたり、今の私はわりと強気にできているので心強いしいつまで持つかな、と思いながらも早く起きることが可能ならばこのあとに煙草一本吸って寝てやってもいい。映画を見たあと無性に酒が飲みたくなったので珍しくバーなどに入ったわけだったけれども、やっぱり一人でバーとか行ってみてもなんともいえない時間を過ごしてしまうのだなということを改めて思った。隣の隣にいたおじさんと少しだけ話したりもしたけれども、少ししたら席の大方が埋まり、そうすると話していたおじさんも他の人と話し出し、私は壁とか手元とか酒瓶とかを見ながら酒を2杯飲んでいそいそと帰ったわけだった。3000円。3000円で私はなんとも言えない居心地の3,40分と2杯の酒を買ったわけだけど、それは適切なことかどうか。酒を一人で飲む選択肢の(私のような人間にとっての)乏しさ。ゴーヤとみょうがときゅうりを塩もみしたやつを福神漬け的な立ち位置で供した、つまるところつまってはいないながらもタイに行った友だちの土産でいただいたカピという甲殻類的であるということ以外は何もわからないペーストのようなものを両日、用いた。今調べてみたら「タイの蝦醤」と出てきた、そんなさらっと蝦醤とか言われても、なんですか、その蝦醤っていうのはそんなに流通している語なん生きていること自体が後ろめたさをそもそも伴っているというかいつもビクビクしているというかいつもバレたんじゃないかと思っているというか何がバレたとか具体的にあろうとなかろうと全部バレたんじゃないだろうか白日のもとにさらされたのではないだろうか彼らが裏でつながってそういった流布がおこなわれているのではないだろうかこれは陰謀なのではないだろうかそれに俺はまんまと引っ掛かったのではないかとずっとずっと思っている生きていることそれ自体が裏切りのような行為にしかならないのだろうか裏切るとか裏切らないとかが何も具体的なものとしてたとえないとしても僕は俺は私は俺はいつも何かにおびえて生きているような気がするそればっかりを私は俺はそう思うというか酒を飲みたいというか酒を飲みたいというか酒を飲んで意識を全部眠らせてしまいたいというかこういったあれこれが全部消えて溶けて嘘になったことが本当になればいいのにと思うというかいつも誰かに釈明をしているような気がするいつも誰かに真意はそうじゃなかったんだ本当はこうだったんだあれは嘘だ嘘じゃないけれども決して本当ではないんだといつもずっと高校生の時から中学生の時からいや小学生の時からそんなのは覚えていないけれどもいつもそうだったような気がする。いつもそうだったような気がする。クリーンに生きることができたらどれだけいいかと思うけれども映画を見たいし酒を飲みたいし飲み交わしたいし誰かと話をしたいしそんなのは全部でたらめだと妄想だとどうでもいい些細なことだとそう言われ背中を叩かれ嗚咽しながら私は嗚咽なんて久しくしていないから嗚咽を久しぶりにしながら私はよかったと、本当にそのときに思えるのか。それは私にはわからないし今の私にはわからないし心底からいま孤独だと思う、辛酸を嘗めている、自分が撒いた辛酸をわざわざ這いつくばって舐めている、それは辛酸というだけあってホットでサワーで舌がヒリヒリと痛む。頭おかしくなりそうだ。頭を抱えるという動作が自然におこなわれた。度。4度。5度、そして電車に乗っていたらそれは今日もそうだったというわけではないにせよ埼京線と湘南新宿ラインが並走する時間帯というものがあり、付かず離れずで前後しながら向こうの車両に乗る人を見る時間帯というものがあり、それは私に明確に『親密さ』の記憶を喚起させた(した?)、そのため「親密さ 駅」とかでググって調べてみたところ田町じゃなくてどこだっけな、田町だっけな、田町なんじゃないかということがあり、あれは山手線と京浜東北線だったのかな、田町なのかな、田町か、と思って私は感動した。それではあの橋はどこだったのだろう、丸子橋とのことだった、検索結果を鵜呑みにするならば。それらを思い出せばいつだってグッとくるし、いつだってその脳裏に現れる映像だけで素晴らしい映画一本分の満足を得られるような気がしている。『親密さ』は私にとってそういう映画だった、という話を昨日と今日、友人に話したという事実はどこにもなかったけれども、だからといって昨日や今日の記憶の価値が貶められるかといえばやはり、そんなことはまるでないのだった。夏休みらしく日々、駅近くの駐輪場はたくさんの自転車の駐輪によって占拠され、停めるところを探すのに苦労するようなこともあったような記憶が定かではないけれどもあり、日本の子どもたちはどうか知らないがチリの子どもたちは9歳とか6歳から「ここでの僕たちの生活自体がいつもオペラみたいなものじゃないか。今さら何がおかしいというんだい?」みたいな口のきき方をするのかどうかは確たる証拠はないながらにもするらしく、するらしくというか少なくともホセ・ドノソの『別荘』においてはされており、ドノソは『境界なき土地』以来2冊目となるけれども、この2冊を見る限りこの作家は狂気とか奇形とかそういうことがきっと好きらしく、しかしそれ以上のことは私にはわからないので9月16日あたりに池袋のジュンク堂だかどこかでおこなわれるという佐々木敦と野谷文昭のトークイベントにもしかしたら行って「ふむふむ」であるとか「なるほど」であるとかの愚にもつかないリアクションをして満足して家帰って寝る、みたいな暮らしをし始めたということもありうるのかもしれない。