4月、休日、ベン・シャーン

text

部屋が暑い。部屋というか、正確には店であるけれど、夜にピナ・バウシュの映画を見に行って帰ってきて(という言い方がすでにおかしい)、いつだって夕飯ジプシーの私たちは店でご飯を食べて、それからずっと何かしらをおこなっている。休日には入り口の前に本日お休みですの看板を出しているのだけれども、前を通る人たちがこの人たちはなんだろうという顔をしていくのがどうしても気になるので2階に移った。いつまで出ることになるのか、こたつの席に座って、寒いから暖房をつけているのだけど暖房が効きすぎて体が火照っている。ビールの影響もあるのかもしれない。500円で売られる原価180円のビール。原価率36%。二度に渡って「び~る」と変換されて腹が立った。google日本語入力を使っているのだけれども、よくないのだろうか。たまにストレスがある。そのため2本目のび~るを厨房から今とってきた。

 

今日は週に1度設けている休みの日に当たり、昨夜間違えて二人して店で寝てしまったためにわりと早く起きられたので近くの喫茶店でモーニングを食べたあと県立美術館で催されているベン・シャーン展を見に行った。ベン・シャーン展は注目されているのかされていないのか知らないけれど美術館の前を通るといつもとてももはや静謐と呼んでもよさそうな静かな空気が流れていて、誰もいないんじゃないか、学芸員すら、という空気が醸しだされているのだが、入ってみるとちらほらとは人がいたので少し安心した。でもちらほらには変わりなかった。たぶん、岡山の美術館が盛り上がるのは先日までやっていた長谷川等伯であったり、昨年の夏ぐらいだったかにやっていた琳派と若冲の展示だったりなんじゃないだろうか。その字面には喜び勇んで向かう人たちには、今回の「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト―写真、絵画、グラフィック・アート」という文字の並びはそう訴求しないのかもしれないし、美術館の看板というのか、外から見える情報としてもまさに「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト―写真、絵画、グラフィック・アート」しかなくて、つまり一つの好悪の判断となる代表作的な作品のサンプルが表示されているわけでもなく実にシンプルであっけないものであることも、この閑散を呼ぶ一つの原因となっているんじゃないだろうか。そんな感じのやつね、と思える視覚的情報がないというのはけっこう、いろいろなものを遠ざける気がする。実際わたしも何かの展示をやっていると気づかずに通りすぎたことが何度かあった。

 

ピナ・バウシュもそうなのだけど私はアート的な教養がまったく欠如しているのでベン・シャーンという人は名前すら一度も聞いたことがなく、どのぐらい有名でどんな感じで評価されているのかは当然まるでわからず、最初のドレフュス事件等を扱った社会的らしい絵画もなんだか別に面白いとも思わずこれはつまらないまま終わってしまうかもなと案じていたところ二部の、説明によるとより抽象的なものに向かっていったとかなんとかの作品群を見てすっかり面白くなった。常にどんよりと深い青とか緑の空の中で赤い線が鮮やかに浮き出ていて、小麦とかレンガ塀とかフェティッシュな悦びに淫していそうな細部に目を見張ったし、何より、ソースとなった写真をわきに置く展示方法によって一枚の絵画が複数の写真をもとに構成されているという成り立ちがよくわかって、それがとても面白かった。

一番面白かったのは「縄跳びをする少女」で、背中を向ける少年の写真、舗装された道で縄跳びをする少女の写真、廃墟めいたレンガ壁とその手前に茂る花々の写真がひとつのフレームに収められて、特に廃墟手前にあった花がにレンガ壁の内壁に移植されている様子が、次元が組み違っておかしなかことになっているような目眩めいた感覚を与えて私をとても興奮させた。その他「解放」の浮遊感と壊れた家の壁紙であるとか、「至福」の綿密な小麦であるとか、タイトルわからないけど腕のやつとか、いろいろと面白かった。けれどだいたいにおいて私はいつもこうなるのだけどいくつかの作品を集中して見たら疲れてしまって、3部4部はすごく適当に見ることになった。いつも思うけれど、一日の一時間とか二時間の中で数十点の絵画を見るなんていうのがそもそも間違いなんじゃないかと今日も思って、半券提示で500円で再入場とか、そういうことをやってくれるとすごく嬉しいのだけど、人に渡されたりしたら困るというような問題なんだろうか。

 

休日を心底満足できる形で私は過ごしたことがなくて、今日も朝から喫茶店、美術館、それから行ってみたかったところで昼飯、タリーズで読書、美容院で散髪、そのあと映画、というわりとめいっぱいのコースを過ごしてもまだ、やはり、全然、何も、何も満たされないような感覚で、それはほとんど後悔と呼んでも差し支えないような感覚で、すごくよくない。それを少しでも埋め合わせるような心持ちでこうやって夜な夜な、カタカタと打鍵を繰り返してみせるが、これとて、なんの救いにもならない。バカがバカなことを書いているとしか思えない。私はどうやったら満足できるのか。満足したことはあったのか。あったのだろうし、というか、あったのだろうかと問うてしまうことは自分の人生に対していささか礼を失していると言わざるをえないと頭では十分にわかっているつもりなのだけど、果たしてそんなことはあったのだろうか、まるで記憶にないと、私はくだらない不満をこうやって並べ続ける。そういう人生なのかもしれない。


« »