5月、ゴールデンウィーク、金
2012年5月7日
ゴールデンウィークがやっと終わって、経営的にはこれ以上ないほどにというかこれ以上はないんだろうなという水準でゴールデンなウィークだったというかゴールデンウィークのゴールデンというのは金のことなのねというのが身にしみてわかったウィークだったのだけど体や気持ちの疲弊の方がより強く、と短絡的には思ってしまうけれど少し視線を先に伸ばしてみればこのウィークに助けられたということになるだろうなということは重々にわかってはいるのだけどそれでも渦中にあるときは怯えとともに始まる日々だったしひたすらに、それは完全に「さばく」という作業に終始し、ゴールデンなウィークでも現在のうちはそうなるのねということがよくわかったのだけど客足がすっかり夜には途絶えて、という夜とてやることはひたすらに仕込み、仕込み、仕込みであり怖いのは明日、だからがむしゃらに食事を制作し続けなければいけないという強迫にやられて気持ちも足腰も肩も、全部が疲れて、悲惨だった。
ゴールデンなウィークに限らず忙しい日に思うのは恐れであり、それは怒濤に来続ける人々をうまくさばくことができるのだろうかという不安もあるし、それとはまた別に、店はいつだってさばかれる存在としてあるわけで、こちらとしてはもはやさばく対象となってしまった人々を十全に満足させることができるのだろうか、二度目はあるのだろうか、という不安でもある。後者は未来に対する不安ということになる。もはや、飲食店である以上、店に踏み入れてしまった人からはどれだけまずい飯を出そうともお金はもらえるわけで、だから問題はその先であって、人がぎょうさん来て、お金をぎょうさんいただいて、その額を見て満足した顔をしているような飲食の人はたぶん間違っていて、そのお金を見たときに本来覚えるべき感覚は不安でなければならないんじゃないかと今は思っている。たくさん人が、つまりチャンスが来た。そのたくさんの人たちを満足させられなかったとしたら、それは将来的に見たときに店にとって損失と呼べるのではないだろうかと、そう考えていて、だからいつもより多いお金を見たときに感じるというかまっさきに去来するのは大丈夫だったろうか、我々のこの日のおこないは、ということだ。ということは理想であり、私は未熟なのであーよかった、お金たくさん、ありがたや、疲れた、という思考になる。まあどうでもいい。
全部どうでもいい。全部とは言わないけれども大方はどうでもいい。唾棄すべき無内容な馬鹿笑いも、ネガティブな部分で同調して溜飲を下げることも、全部くだらない。なんにもなければいい。人間に関わることの全てが私にとってはなんというか容量オーバーというか、みんなよくやってるなと思う。感心する。尊敬する。何にも興味が惹きつけられない。どうでもいい。映画や小説を私がどうしようもなく欲するのも結局、無菌室のなかに入りたいだけなのかもしれない。誰かが制作したものを安全な場所で眺めながら、インスタントな感動や動揺を得て、それがあればいいのかもしれない。そこで得られる感動も動揺も、本当に安全なものだ。この作品で人生を変えられた、みたいなことを言う人がいるけれども私の人生は小説や映画では変わらなくて、せいぜいのところが「あーいま俺茫然自失」と思いながら茫然自失のポーズを15分きめるとか、1日や2日、長くて1週間とか思い出しては感動したり動揺したりするぐらいで、人生のスパンで考えればあっという間にそんなあれこれは過ぎ去って、私は元通りの私として軽薄に振る舞い続ける。とても安全で、何にも脅かされなくて、私は、そんな無菌室でゆったり、何かにひたったつもりでいられればそれで満足なのかもしれない。私の生など、驚くほどに、嫌になるほどに軽いもので、ウィスキー飲んで、ダルビッシュの投球を見て、飽きてソリティアやって、寝て、起きて、私には何も残ってなくて、そもそも何もなくて、がらんどうで、からっぽで、バカがバカの顔して何も楽しめないまま死ぬまで生きて、それだけでお腹いっぱい。悲しい。誰にも同情も何もされたくない。それならこんな文章書かずにキーボードから指を外せ。くだらない。それならわざわざブログに更新してツイッターでそれを知らせてなんていうくだらなさの極地みたいな行動せずに目をつむってろ。なんの自意識なんだよ全部。何を発露して何を知ってもらいたいんだよ。苦々しい。「苦々しい。」って、なんでわざわざそんなこと打つんだよ。誰からの何を期待しているんだよ。頼むから黙っていてくれ。「頼むから黙っていてくれ。」頼むから黙っていてくれ。混乱したふり。全部ポーズ。コントロールA、コントロールC、ダッシュボード、新規投稿、コントロールV、「5月、ゴールデンウィーク、金」、公開。