幸せの教室(トム・ハンクス、2011年、アメリカ)
2012年5月29日
清々しいまでにどうでもいい映画を見るというのも悪くないものだった。見るそばから見ている事実そのものを忘れていくような、そんな素晴らしい時間を経験できた。
予告編を見て、トム・ハンクスやジュリア・ロバーツがいるだけで映画はなんだかいいものだなあと、どうせウェルメイドな大人のラブストーリーなのだろうと、そんな期待を持って見に行ったのだし見たあとの感想もおそらく「ウェルメイドな大人のラブストーリーだった」というものになるだろうと高をくくっていたのだけれども甘かった。
冒頭で「A Tom Hanks’s Film」と出た瞬間に抱いた懸念が現実のものとなった格好で、『ターミナル』や、あるいは『プリティ・ウーマン』で素晴らしい演技を見せたハリウッドの素晴らしい俳優たちを素晴らしい俳優たらしめるためには結局スピルバーグであるとかマンゴールドであるとかの名監督が必要なのかもしれなかった。あるいは一流のチームが。
主演監督脚本をつとめたトム・ハンクスは結局ジュリア・ロバーツとチューをしたかっただけなのではないのか、本当にモチベーションはそれだけだったんじゃないかというような、機微とかそういったものをまったく度外視したような話の結構は、なんというかもう、本当に、いいよ、それでいいよ、トム、と言ってあげたくなるような感じだった。清々しかった。実際、本当に別にそれでいいんじゃないかと感じた。ジュリア・ロバーツはたしかに魅力的で、トムにホの字になったときのドギマギした感じとか、笑顔とか、何歳なのかわからないけどいいぞ、ジュリア、という感じだった。
予告編で「これは見たいなあ」と思った夜のスクーターのシーンは意想外にチャラチャラした音楽に彩られてしまって、ああもう、本当にどうでもいいなと思った。
スクーターの記憶というと、ホウ・シャオシェンのというかスー・チーの姿であるとか、池田将の『亀』の新聞配達であるとかを思い出すのだけど、実際、どうだったんだろうか、あの音楽さえなければ、というかもう一工夫というか何かちょっとしたものがあれば、この映画のスクーターのシーンもそれになったのではなかったか、だってトム・ハンクスとジュリア・ロバーツの2ケツなんだから、と思うのだけど、きっとそういうことじゃないんだろうと思うことにした。
結局、本編の改竄と言っても差し支えなさそうな気がする予告編がよかった、という結論になった。