5月、下旬
2012年5月29日
作ること以上にと言ってしまっては言い過ぎだけれども、プロとアマチュアの違いは、自分が作ったものに対してどれだけ責任が持てるかというところにあるのじゃないかと最近思ったり思わなかったりして、自分が作ったものを何かで見せようとするときに、自分の満足のいく形でそれを提示するための労力あるいは金銭を惜しまないか惜しむのかは、すごく大きな違いというか何かを分かつぐらいの大きさの違いなのではないかと思った。
それとはまた別の話だけど最近はなんというか最近もなんというか日々は常に発酵しながら、酸っぱい匂いを立てて過ぎていく。それを見送るのが精一杯で何ひとつ、自分の思うようにはできていないこの現状に歯がゆさを通り越して諦念すら覚え始める。こうやって勝手に諦念という体のいい言葉で終えるのがアマチュアで、そうじゃないのがプロ、と、なんのこっちゃ、自分でももはやわからないことを言い募るのがプロ市民。なんだったか。忘れた。何か書きたいことがあってこうやって打鍵を始めたような気もしたけれども全部忘れたような気になった。
ここのところは本も読まずに映画も見ずにひたすらお店のwebページを制作していて、面白くて夢中になって毎日遅くまでというかほとんど日がのぼり始めるぐらいまでパソコンの前でああでもないこうでもないとやっているのだけど、その事態に我ながら驚く。何かに対してこんなふうに夢中になることってあっただろうかと疑う。こんなに夢中になることがwebページの制作という、まったくの畑違いの、まったくのド素人の出来事であるというこの事実におののく。
私は表現という言葉が嫌いで、何か、芸術というのかそういったたぐいのものに対して表現という言葉は使いたくなくて、作業だと言いたいと、そう事あるごとに言ってきたというか誰に言ってきたのかわからないのだけど思ってきたのだけど、コードを書いてページがどうなっているのかを確認してまた書きなおしてのようなことをやっていると、もしかして表現ってこういうことなんじゃないかとふいに行き当たった。見せたい形が確定していて、それを再現するために技術的な問題と直面しながらああだこうだやることこそが表現なんじゃないだろうか、というか、表現という言葉がいちばん居心地よく落ち着く場所なんじゃないだろうか。それが上等なのか下等なのかはわからないけれど、表現ってこういうことなんじゃないだろうかと、夜な夜な考えた。事前に確定、再現、技術、この3つのタームが関わるものが表現だと、今のところそう思うことにした。
だから、というか、だから、というか、だからここのところは本当にまったく映画も見ていなくて小説も読んでいなくて、いったい『逆光』はいつ読み終えるのだろう。月の初めごろはわりとちょいちょいと読み進めていて、このペースなら今月中には、と思っていたけれども5月ももう終わる。5月は、というか毎月、本当に「あ」という間に終わっていく。年末に読み始めて、いまだに読み終わらないというのは精神の怠惰以外なにものでもない。多忙という言葉は愚者のためにあるので、私はその言葉を使わないと何かのライフハック記事を読んで思わなかったのだけれども、それに従ってみても私は結局のところ余りあるほどに愚者であり、まったく馬鹿げている。店のwebで、いったい何をやりたいんだろうか。店の名義でいったい何を書きたいんだろうか。作ることが先にあってその後のことはほとんど何も考えていない。到達する先に自己の満足すら見いだせないこの不毛はいったいなんなんだろうか。
馬鹿げている。今日も昼ごろに起きて文房具屋やハンコ屋に行って必要なことをこなしたあとは店に行ってひたすらwordpressをいじくっていて、タクソノミーがどうとかタームとかjquery?なんのこっちゃわからないものをカタカタといじっては確認、落胆、確認、落胆、ハッピー、という工程を夜までやり、映画館に行って映画を見たら感想にも書いたけれども清々しいまでにどうでもいい映画で、それはそれで楽しかったし彼女も「友だちの恋バナを聞くのって楽しいよねっていう感じだよね」と言っていてああそれだなと思って店に帰ってきてカレーを食ってビールを飲んで、映画の中でジュリア・ロバーツが作家の夫に向けて小さいディック、小さいディック、と枕元でささやくシーンがあるのだけど、その続きにブログ命のルーザーと罵って、思わず笑ってしまったのだけど、それに則る形で私もこうやってブログを書いている。私は小さいディックのブログ命のルーザーであり続けたいのだろうか。小さいディックのブログ命のルーザーは電気羊の夢を見ているのか見ていないのかは推し量れないにしても今宵も笑顔で眠るのか?