私が、生きる肌(ペドロ・アルモドバル、2011年、スペイン)

cinema

予告編にて。メイクをほどこしたショーン・ペンのアップのあと、水色の空と白い砂の画面上部に「THIS MUST BE THE PLACE」という文字が映し出された瞬間に私はもう動揺してしまって、なんてタイトルだ!こんなの、ルール違反じゃないか!と叫びだしそうにはならなかった。私は常識をわきまえた人間だから、映画館という公共の場で叫んだりなんやかんやをしたりすることはない。
しかし、それでも、吉祥寺の2006年の夜、『STOP MAKING SENSE』を見た、聞いた、体験したときは、低音でビリビリと震える体をなんというかこうくねくねと動かさないではいられない、動かさない俺はいったいなんなんだ、なんで俺はそれでもなお、こんな素晴らしい衝動があるのになお、動かさないんだ、というぐらいにすべてを持っていかれて、デヴィッド・バーンの一挙手一投足に、無駄にというかこれ以上の必然はないだろうという必然で流れる涙を抑えようともせず、呆然と、ただ見つめ続けたのだった。あんな映画体験は今後私の人生にあるのだろうか。とは書いてみたものの私は『STOP MAKING SENSE』を映画館で見たことはないので嘘で、DVDで何度も何度も見たというのが本当だった。何度も何度もとは言え全編を通して見たのはたぶん1度か2度で、あとはだいたい執拗に「THIS MUST BE THE PLACE』を見た。布団に入って、朝、いろいろな涙を流しながら見た。歌詞もだいたい覚えて、あのリラックスした、とち狂った、どうしようもない歓喜の歌を一緒に歌った。
そういうものだから、タイトルが『THIS MUST BE THE PLACE』って!と動揺して、ああいう演技をやらせたら本当にショーン・ペンはいいんだろうなとなって、ロードムービーで、と思ったら『パリ、テキサス』のおじちゃんがおじいちゃんになった姿で出演していて、でも同じようにキャップをかぶっていて、と思ったらあのリズムが聞こえてきて、ステージで、白髪の、そして白いスーツの、少し顔に肉がついたように見えるデヴィッド・バーンがうれしそうに歌っている。横にいるのは黒人の素晴らしいコーラスガールでは今回はなくてストリングスの娘さん3人で、全体に白で、だけど立ち位置とか、どうしてもあのステージを彷彿とさせて、その姿を見た瞬間にもう完全に滂沱。
チラシを見てみると少ない紙幅のなかで3箇所も「クール」という言葉が使われていて、それは「演出」とか「映像」とかにつながるのだけど、そのあたりがやや懸念されるというか、実はこれはつまらないんじゃないかという懸念は拭えないと言えば拭えないというか、映像のトーンとか、音楽がいいとか、そういうあたりでハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』が思い出され、これも予告編が抜群に面白そうだったけれど実際はそんなでもないかなーという印象で、その路線の懸念。でも見る。

『きっとここが帰る場所』
岡山、シネマ・クレールでは8月11日から24日まで。

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『私が、生きる肌』の方は「あちゃー、またどうでもいいやつ見ちゃったー」という感じだった。冒頭で大写しで「a film by ALMODOVAR」みたいな文字が出てきて、ああ巨匠ともなると苗字だけで署名になっちゃうのねーと思ったりしたぐらいで、あとはいちいち音楽がうっとうしいなーとか、青年これ和姦だよなーしかも和姦未遂、それがこんな仕打ちとかかわいそうだなーと思ったりしたぐらいで、エンドロールが流れるあいだ、あくびの連発により涙が頬を伝い続け、さらに鼻炎で鼻水が出てきて鼻をジュルジュル言わせて、その姿を彼女に見られ、あとでなんと弁解しようか、それに困った。言えば言うほど「ほんとは感動したんでしょー」とか言われちゃいそうで、「違う!断じて違うんだよ!断じて!」「またまたー」というループに陥るのは明白かと思われたが、意外にもすぐにあくび及び鼻炎を納得してもらえたみたいでほっとした。


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