7月、アンゲロプロス、9月

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9月から岡山シネマ・クレールでアンゲロプロスの特集があるとさっき上映予定見てて知り気分高まる。ちょうど昨日、蓮實重彦の『光をめぐって』のアンゲロプロスインタビューを読んでいて、ああまた見たいなあ、『霧の中の風景』見たいなあ、どうしようかな、DVD買おうかな、しかしDVDのリッピングが違法になったとかで、そうなるとDVDというメディアが死んだあと、つまり今のVHS状態になったあと、PCにデータを、と思ってもやりようがなくなるわけで、とかそういうことを考えるともはやDVDを買う気が起きなくなるのが今のところで、だけどよくわかっていないのはリッピングしちゃいけないのはどういうDVDなんだろうというところで、ネットでリッピング違法化の記事を見るとCSSとかいう暗号技術の技術的保護手段を回避しておこなわれる私的複製は違法、とあったのだけど、買ったやつはそういう暗号化がされているのだろうか、それともレンタルのだけとかだったりするのだろうか、何を見たらわかるのか、というところで、とにかくよくわからないのでDVDを買う気になれない、そもそもブルーレイになっていくのが世の趨勢らしいし、だけどどうせ物理ディスクなんて何年かしたら廃れていく運命なのだろうから、だからもはやDVDを買う気にはなれない、そういうあれやこれやがクリアされれば私はアンゲロプロスの『霧の中の風景』が入っているボックスを買うよ、と思うのだけど、よくわからないので買わない、と思っていて、こうやって消費が冷え込んでいきます。だから、すでに『永遠と一日』が入っているやつや『旅芸人の記録』が入っているボックスは所有していて、それらは数年後、あるいは十数年後、どういった状況にあるのだろうか、と今は案じている。一時期なんでだかリヴェットとかトリュフォーとかゴダールとかヴィゴとかデプレシャンとか、驚いた、全部フランス映画じゃないか、そういったあたりのボックスを購入する時期があって、繰り返しになるがリッピングダメってなった今、それらはいったいどうなるのか。

 

微笑ましい挿話。

あの少年(『霧の中の風景』の主役の男の子)はかなり面白い子で、クラスで一番という頭の良さに加えて、すでに15歳のIQに達していました(笑)。だから多くの知識があったわけですが、撮影の第一日めが終ると、いつものおしゃべりが急に無口になって、スタッフの車に乗り込み、そこにあったマイクを使って、「スタッフのみんなは僕なんかよりずっと頭がいいし、経験も豊かだ。それがどうして、僕も含めて、たった一人の人間の命令に従わなければならないんだ」とたずねたそうです(笑)。(蓮實重彦『光をめぐって』リュミエール叢書、1991年、以下同)

 

厳粛さ。

たとえば『一九三六年の日々』のかなりの部分は、いまでは使われていない監獄を使って撮影されましたが、その壁は白く、窓ガラスが緑色で、中庭には樹々が生い茂っていた。まず、一週間かけて中庭の植物をすっかりとることからはじめ、そして天井の梁をすべて黄土色に塗り、窓は黒くした。そうした塗り替えは、サルーヒスという画家の指示によって、当時の色彩に近づけるためです。しかしそれは再現ではなく、色彩的な歴史の解釈というべきものです。
『旅芸人の記録』の場合、出てきた家はそうした方向にそって、すべて塗り替えました。ときには木の葉も塗り替えた。私には木々の緑が派手すぎたので、それを黄色っぽくさせたのです。

本物の雪であることは確かなんですが、撮影当日に降ったものではありません。あの地方には雪がなかったので、雪のある山岳地帯から六十台のトラックを使って運ばせたものです(笑)。
(…) 私は、天候が気に入らなければ、一ヶ月だってキャメラをまわしません。『シテール島への船出』のときなど、ロケ地で一ヶ月間曇りの日がなかった。私はどうしても曇天が必要でしたから、その間天候が悪化するのを待つんだといったのですが、あのオーストラリアの監督、本気にしていなかったようです。でも、本物の雪が必要なら、トラック何十台であろうと運ばせなければ気が済まない。

 

日々金勘定をしていると、人が一人動くということはそれだけでお金が掛かる、ということがなんとなくよくわかってきたような気がしていて、いろいろな話を見聞きしながらも、そこではどういう金が発生しているんだろう、とよく考える。アンゲロプロスはめぐまれた環境で映画を撮っているんだなと感じる。厳粛さと、それを実現させるだけの予算。

今日、開店前に突如「カタログの撮影場所として使わせてくれ」と言われてなんとなくオーケーしたら、十名もの撮影隊が来てびっくりした。ものすごい暇な日だったのでそのあとご飯も食べてくださったので「救世主だったね」と彼女と笑っていたのだけど、それにしても、あれだけの人員を動かすのにどれだけの金が掛かるのか、と思うと気が遠くなる。カメラマン、カメアシ、ディレクター、スタイリスト、ブランドの人、モデル二人、というあたりまではわかったのだけど、あとはどういう役柄なんだろうねと話していて、伝記作者とかどうだろう、という彼女の発言が素晴らしいと思った。私はそれに影響される形で肖像画家とか、と言った。

 

思えば、先日見た『私が、生きる肌』が失敗だったのは、見る前に『装苑』で作品紹介を読んでしまったのが一因で、そこには天才の外科医の方が娘を暴行した男を拉致監禁して亡き妻そっくりに性転換及び整形する、みたいなことが書かれていて、男が女にさせられる、という部分は映画を見ているとたぶん一時間以上たたないと出てこない話で、だから、見ながらも「いったいどいつが女にさせられるんだ」ということばかり考えてしまった。しょうがないのかもしれないけれども、『装苑』は書きすぎた。だけど、素晴らしい映画であるならばそんな事前の知識なんてぶっ飛ばして頭をガンガンに叩きのめして目の前だけを見させてくれるだろう。だから、私にとってはアルモドバルのこの作品はやっぱりどうでもよかったらしかった。

 

アンゲロプロスに話を戻せば、今回のというか9月からの特集というか順繰り上映は追悼特集という名目らしく、これまで私は追悼上映とかってなんかこう、死を利用してそういうことするなよ、追悼上映になる前に普通に上映してやればいいじゃん、と思っていたのだけど、その形であれいざ岡山で普段見られないものが見られるとなると、追悼大歓迎、RIPアンゲロプロス、という気分になるから困ったものだった。死という事件を待たずとも、しかるべき作品が映画館で流されて、そして人々はそれに駆けつけるようにならないければならない。

そういえば今月末には岡山で2日に渡る原田芳雄映画祭がある。有志の人が企画したものだそうで、充実した感じのプログラムで、と言っても私は原田芳雄は清順の『ツィゴイネルワイゼン』ぐらいでしか知らないような気がするから充実しているのかどうかはよくわからないのだけど、充実した感じのプログラムで、先日その有志の人の一人とちょっとお話する機会があってうかがったところDVDがレンタル10万円ぐらいだったとのこと。ハードル高し。ちなみに初日上映の3作だったかがDVDで、2日目がフィルム上映とのこと。フィルムは福武(ベネッセ)から借りたか何かしたとのこと。


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