7月(2)

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なんとなく参照し合う感じ、という懐かしさ。それぞれがそれぞれに特に言及したりリンクを貼ったりするわけでもなく勝手に、そこだけを見れば文脈なんてさっぱりわからない形で参照し合うような、奇妙な連携というと青臭いし気持ち悪いしすごく気持ち悪い。変にそういうことばかりがされるならば不健全な循環ができてしまうような気がするのでうまく自制するべきだという主張が採用された。喝采、拍手、足踏み、野次、エアコンの風に舞う何十枚もの書類…… 議会は踊り、紛糾した。

 

そういった流れの中で昨日本屋に行って『思想地図β3』とロベルト・ボニャーロ『野生の探偵たち』、デニス・レヘイン『ムーンライト・マイル』を買ってきた。

ここ何日かはドミニク・チェンを読み終えて次は何を読もうかと思いながら保坂和志×青木淳悟、柴田元幸×都甲幸治の対談になんとなく惹かれて先日買った『新潮』から新人で600枚とかで巻頭に掲載されている松屋仁之の「火山のふもとで」を夜な夜なぽつぽつと読んでいたのだけど、なんというか、1980年代の建築事務所の話で面白いような感じもあったけれど書かれている建築的なあれこれが面白いというだけで、刺激的とは言いかねる文章が続いて気分も高揚しないので、やはりここは探偵でしょう、というところで海外の小説に手を出してしまう。『逆光』でしばらく長い小説はいいやと思っていたのに、『野生の探偵たち』は厚めの上下だし、デニス・レヘインはシリーズ5作目だか6作目だかで、また長い旅行に出かけるような気分になる。なんでだろうと思うのは思って、なんで日本の小説と海外の小説で、漠然と感じるスケールみたいなものがこんなに違うのか。日本の小説の多くが、映画も然りだけど、せせこましくて下向きでうだうだとしているように見えてしまうこの感じはなんなのか。私は冒険が読みたいし見たいし冒険をしたいらしい。下を向くのは地図を見るときだけ、みたいな規模を感じるものを読みたい。日本の小説で面白いと思えるものは、もはや、柴崎友香や綿矢りさがそこに入ってくるのかはわからないけれど、保坂和志であれ青木淳悟であれ磯崎憲一郎であれ岡田利規であれ、何かしら「奇妙」で、体裁がもうおかしい、いわゆる小説らしさを放棄している、みたいなものに限られてしまうような感があって、いや、まあ、そんなこともないか、米澤穂信とかはただ単に冒険であり、というか探偵だから面白いのか。わからないけれど、少なくとも「火山のふもとで」は私を冒険させる小説ではどうもなさそうだし時間は限られているので次にいくことにした。せせこましい文学なんて人生に何ももたらさない。松屋仁之の作品と同じようなタイトルで、『野生の探偵たち』と同じ白水社エクス・リブリスから出ている『火山の下』はなんでこんなに大きそうに見えるのか。

 

名前が悪いのだろうか。登場人物の名前が山田とかの時点でなんかアウトなんだろうか。登場人物はスティーブとかじゃなきゃワクワクできないんだろうか。アレックスとか。なんかそんな気もしてくるけど全然関係ないような気もする。だけど命名の儀式が、今の私には馬鹿げて見えている。なぜ登場人物には名前が与えられなければいけないのか。スティーブやアレックスならオーケーなんだけど山田はアウト。なんか今はそんな感じ。


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