クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち(フレデリック・ワイズマン、2011年、フランス/アメリカ)
2012年8月3日
いつかの誕生日にそう親しくない友人とアテネフランセに見に行った『DV』が初めてのワイズマン体験で、そのあとは『チチカット・フォーリーズ』や『アメリカン・バレエ・シアターの世界』、『臨死』、『パリ、オペラ座のすべて』とちょこちょことは触れていたのだけど、去年あった特集上映は神戸か山口に行ってやろうと思っていたら気づいたときにはとっくに終わっていて、今作も岡山には来ない、バレエじゃなきゃ人が呼べないとでもいうのか、と憤りながら大阪まで見に行った。
今作は、これまでのワイズマン映画を見てきたときと比べて、何か、どこか、刺激に欠けるような印象だった。高速バスとは言え映画を見に行く交通費としては十分に高いものを払って見る以上、期待はものすごい大きかったのだけど、あれ、こんな感じだったっけ、と少し気が抜けた。これはとても残念だった。その気持ちを必死に否認したかったが、多分できなかった。
なんでだろうと考えると、わからないけれど、どこか本番で演じられるダンスありきで編集されているというか、稽古風景や舞台裏やミーティングが、どこか本番への補助線みたいな形で編集されているような感じがしたからだろうか。『アメリカン・バレエ・シアターの世界』のときも、稽古風景にはやたらに感動していたのに、いざ本番となったら一気に退屈になったという記憶があり、それに近い感覚かもしれない。
もちろん、クレイジーホースのショーはすごくものすごくて、ダンサーたちの体が切断されて陳列されるような、パーツとしてのみそれぞれが称揚されるような、あるいはスクリーンとしてそれらが利用されるような、見たことのないもので、見ながらこれは一度は実際に行ってみたいものだ、しかしデフォルトでシャンパンとか出されるしいったいどれだけ入場料取られるんだろう(今公式サイト見たら載ってて意外に安かった)、と思う、きわめてユニークでハイクオリティのもので、それだけで十分に見る価値のある映像だとは思うのだけど、何か、ワイズマンの映画が持つ力はそんなものじゃないような気がこちらはしているから、というか、本番の映像だけならワイズマンじゃなくたっていくらでも撮れるような気がしているからか、何か物足りなさを覚えてしまう。
私が面白く、そして「映画!」と感動しながら見るのはダンサーたちの舞台裏のけらけら笑いであったり、稽古中の試行錯誤であったり、老いてなお最上級にチャーミングな衣装担当の女性のミーティング時の弁舌であったりで、たぶん、それは不完全で不定形な「人間!」という姿の方で、そういう意味では何か消化不良のものが残る鑑賞になってしまった。
とは言ったものの、それが充実した画面の連鎖による類まれなる134分だったことは間違いないとは言い添えておく。