桐島、部活やめるってよ(吉田大八、2012年、日本)

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原作についてはかつて書店で平積みされていたような記憶があるだけで読んではいないし何かタイトルも鼻につく(たぶん読点のせいか、なんか知らん奴になれなれしく話しかけられている感じのせい)し、見に行くつもりはこれっぽっちもなかったのだけど、RSSにチラチラと言及エントリーがあがっていくのを見ながら「はて」と思っていたところ、友人からのメールに「未見ならば」とあったため、行った。二度行った。

 

 

ガス・ヴァン・サントの『エレファント』との類似がどこでかは知らないけれど指摘されていると読んだのだけど、私は『エレファント』についてはまた見ようまた見ようと折りにふれ思いながらも久しく見ていないのであまり覚えていないこともあり、中心人物を欠いた群像劇という点からなのか、ただ大好きな映画だからなのか、アルノー・デプレシャンの『二十歳の死』をなんとなく思い出しながら見ていたのだけれども、デプレシャンが説明を放棄しながらもうなんかこの人たち絶対こんな感じっていうかいるよねというかなんかあるよねこういう場きっとフランスとかには知らないけどでもきっとというリアリティを獲得したのとは反対に、吉田大八はこれでもかと描写を重ね、同じ時間を異なる視線から何度も捉え直しながら、見る者に向けて「この子はこういう子だから、ちゃんと覚えておいてくださいよ、こういうことしたりするしああいう顔もしちゃう子だから」と念押ししながら、説明の労をまったく惜しまずに、どんどんと強固なリアリティを築きあげていく。その結果として一見わかりやすい作りになっているスクールカーストと、そこに内包される歪みやスクールカースト上では想定され得ない様々な種類の視線が見事に描き出されていた。なんとなくさくらももこの『永沢くん』を思い出した。いや本当に、こんなにも関係性を見事に捉えて画面に定着させることに成功した映画は近年そうなかったんじゃないかとか極端なことを言いたくなるくらいに鮮やかだった。金曜日で提示された関係性が月曜、火曜と日が経つにつれてどんどんとひずんでいく緊張感はすごかった。

 

そしてとにもかくにも残酷だった。

とても美人のクラスメイト及びとてもイケメンの彼氏につきまとうちっちゃい女の子が苛立ったとても美人からそっけない態度を取られて「ごめん」と言っても無視される様や、欲しいと、絶対に欲しいと思っているはずのiPhoneではなくガラケーを使っているところや。

真剣に映画を撮ろうと思っている映画部員に向けられる「遊びでしょ?」の言葉であるとか、テーマは自分の半径1メートル以内で探せという顧問の不理解や、冴えない映画オタクがスクールカースト上位陣に対して(決して聞こえないように)ぶつぶつと呟く呪詛の言葉や。

主体性を一切持たないで帰宅部連中や彼女と称されるちっちゃい女に言われるがままにしか動かないイケメンや、練習に行かなくなって久しいのに肩から下げる野球部のバッグや、キャプテンが彼に向ける優しさや、突き放しや。キャプテンのストイックさや。

あるいは桐島不在の事態を怒りにしか変換できないバレー部員や、桐島の不在によって試合に出ることになってしまうリベロの戸惑いや、結果としての叫びの悲痛さや。それを見守るバド部のキュートガールがとても美人たちに向ける密かな軽蔑や、諦めや、小さな反逆や。帰宅部員たちの放課後のバスケや、そこで露見される意外に建設的な態度や。

そして何よりも、どうしても残酷だと思ってしまったのはイオンの映画館で前田(神木隆之介)とかすみ(橋本愛)が出くわすくだりだった。二人は塚本晋也の『鉄男』を見た。

「未見ならば」と言ってきた友人からのメールにはたしか「グミチョコを通っている者ならば」ともあって、私は大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』は数年前に初めて読んだ者で、通っているというか読んだことがあるという程度の者なのだけど(とは言えぐしゃぐしゃに泣きながら読んだのだけど)、『グミチョコ』では主人公とヒロインの子が池袋の文芸座でばったり出くわし、こんな映画好きだったのか双方、ということが知れ、そこから固有名詞の応酬がおこなわれ、わーい、わーい、と歓喜する様が描かれたわけだけど、『桐島』では、上映後に映画館近くのベンチで話しながら(寒い季節だし飲みたくもないであろうペプシコーラをかすみにおごる前田の浮き足立ちが切ない)、「前にもああいう体が割れたところからなんか出てくるやつ見たことある気がする」というかすみの言葉に反応および興奮した前田がいくつもの映画のタイトルをあげるが通じないし、めげずに「タランティーノは好き?」と聞いてきた前田に対してかすみは「好き」とはいうものの、どの映画が好きかと問われたら「人がたくさん死ぬやつ」と答えるにとどめ、タイトルを言おうとしない。お前絶対タイトルまで把握してるだろ!と私は突っ込みながら、固有名詞を通さないことでかろうじて共犯の関係にならない場所に立ち止まるかすみの姿に、何か、双方にとってとびきり残酷な事態が起こっているような気がしてならなかった。かすみはその後、放課後の教室で彼氏と話しているときにも、「何を見たのか」と問われても「なんかマニアックなやつ」と言うだけで、その姿がとても切ない。どうせ言っても通じないし、そういう面を知られたくもないし、ということで拒絶された感のある彼氏のそのときの反応も切ない。映画に関することに限らずかすみが全編に見せる曖昧さは、相手にとっても自身にとっても残酷なものだったように見えた。

 

そこまで見るものにどんなカタルシスも与えずに、緻密に緻密に、ひたすら緊張感を高めながら練り上げられて迎えた最後の屋上の場面は、もう本当に最高で、最高で、もちろん、文化部員たちのスクールカースト上位陣に対する反逆の喜びもあったけれども、そういった物語上の次元を超えたところで大きな解放が私を包み込むようで、二度とも私はあごを震わせ鼻水で唇まで濡らしながら泣いた。吹奏楽部が演奏する「エルザの大聖堂への行列」という曲をバックに、桐島を求めて屋上に押しかける上位陣、そこで粛々と撮影をおこなっていた映画部が対峙する。橋本愛の平手打ちを合図に神木隆之介が彼らを襲えと言う。食い殺せと。ダイアリー・オブ・ザ・デッド。それまでほとんどセリフもなかった映画部員たちがゾンビと化して次々に上位陣に襲いかかり、その様子を中腰の神木隆之介が8ミリカメラで撃ち続け、大きな口をあけて叫び、橋本愛が美しいとしか言いようのない顔で立ち尽くす。その首筋に最後のゾンビが襲い掛かる。もうどうしようもなく素晴らしかった。もうどうしようもなく…… いやほんと最高すぎて何がなんだかわからないです。うれしくてうれしくて仕方がないです。

 

なんかよくわからないことになったけれど狂おしいまでにとてもよかったということです。


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