9月、ブルーハーブ、連休
2012年9月6日
土曜日の晩、THA BLUE HERBのライブに行ってきた。日曜日も当然営業だったため2時からのライブというのはしんどいのではないかという懸念はあったのだけど、行かずに、見ずに済ませては到底いけないと判断したために行った。5時近くに家に帰ってからも何か興奮がおさまらず、いつにない饒舌な口ぶりで彼女といろいろなことを話した。
会場のエビスヤプロにはこれまでこの場所で見たことのない数の人であふれていて、知った顔もたくさんあった。社交をしに行ったわけではないから別段誰がいようともかまわなかったはずだけど、色々なレイヤーの顔ぶれがそこここにいることを見ると何か嬉しいというか、安心するものがあった。集まるべきところに、集まるべき夜にちゃんと人が集まった、というのが嬉しかったらしかった。
新作の『TOTAL』は聞いていなかった。1stと2ndをかつて私は、自己啓発セミナーの録音CDを営業の車中で聞きこみまくる出来損ないのサラリーマンと同じ態度で聞きこみまくっていて、それこそ啓発され、鼓舞され、さあがんばらなきゃ、ボスもがんばってるし、俺も、そろそろ、多分、という気分になっていた。これまでに音楽にこんなに背中を押されたりしたことはなかったように思えた。大切な存在だった。1stや2ndでボスたちが立っている場所は挑戦者のそれであり、煽動者のそれだった。それらと私の立っている場所は親和性が高かった。3rdで彼らは教育者になった。彼らがステージを一つ上がっているあいだ、私は何も成長せず、何も果たせず、前に進まず、だからこそ、ブルーハーブが遠いところにいってしまった気がした。彼らの変化について私はひとつもネガティブなことは思っていなくて、これはアーティストの変化みたいな事態に対する感じ方としては異例のことだと思う。変わっちゃった、まるくなった、つまんなくなった、ということではまるでなくて、自分がまだそのステージに近づけていないことがいけないんだと、このあたり完全に自己啓発っぽい感じで今打ってても気持ち悪いんだけど、そういう感覚であり、自分に聞く資格ができたとき、改めて聞こう、そうしたら同じ言葉がまるで違う響きで私のうちに入ってくるはずだと、そう思っていて、だから今回の4thについてもまだ聞いちゃいけないと思い、買ってすらいない。
ライブは格好良かった。ブルーハーブのライブはこれまでも二度だけ見たことがあって、最初はその存在も知らなかった高校生のとき、新宿ロフトでのdownyとの対バンとして見た。制服を着て見た。青木ロビンに傾倒していた私にとってそのときのブルーハーブのステージはまるで興味をもたらすものではなく、なんなんだろうこの人たちは、ぐらいだった。二度目は大学四年のときだろうか、いつかのフジロックの夜中のマーキーのときで、このときは見る気満々だったにも関わらずそれまでに飲み過ぎたことがたたってライブの途中で眠りこけてしまって何も覚えていない。いずれも、なんてもったいないことをしていたのだろうかと今になって。
だから今回のライブが、最初から最後までをちゃんと見る初めての機会で、それで、ライブは本当に格好良かった。知らない新曲も、「クラシック」と呼ぶ昔の曲も、それから途中途中の演説も、全部格好良かった。冒頭にも書いたように深く重い余韻が体と頭と耳に残り続けた。それでもやはり、今はまだ自分には違うのかもしれないという違和ははっきりと残った。ボス自身もボスは変わっちまったみたいに思う人もいるっていうのは知っているけれどみたいなことをMCで言っていたけれども、もう本当に、がんばります、僕も、これから、きっと、多分、と思った。ライブのあとに「もっと昔の曲やってほしかった」であるとか「ボス変わっちゃった」という声を実際に耳にしたのだけど、ことブルーハーブに関しては幻影を求めるのではなく、距離を見定め、それで自分はどうするのかということだと思う。少なくとも私にとっては。間違いなく。
8月でたまった疲れを少しでも取ろうと昨日今日と店を休みにして休日という感じで過ごしているのだけど、いざ休むと何をしたらいいのかわからなくて困る。やることがないわけではないというのは重々わかっているのだけど、どうにもうまく体が何にも反応しないというか、うまく時間をやり過ごせない。映画を見たり、本を読んだり、文字を打ったり、しているけれどもなんだかこれでいいのかわからない。昨日は店の地下室で『チェンジリング』を見、今日は映画館でアンゲロプロスの『霧の中の風景』を見た。昨日はロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち』を読み、今日は箸休め的に買ったジェフ・ジャービスの『パブリック』を読んだ。昨日はタリーズで文字を打ち、今日は店で文字を打った。いいじゃないか、とも思うのだけど、見ることと読むことと書くことは私の中で常にトレードオフの関係にあって、トレードオフって言葉の使い方合っているのか甚だ不安なのだけど、トレードオフっぽい感じにあって、何かを読むことを選択した場合、見なかったことと書かなかったことがいつでもつきまとい、見ることを選択した場合以下略、という感じになる。限られた時間の中で何をどう割り振れば自分が満足できるのか、25年以上生きてきたけれどいまだわからない。時間が十全にあればうまくいくわけでもなくて、それはそれで全部をやるには体や頭がついていかなくて、今日も今日とてぼーっとしながら野球関連のネット記事を読みふけったりyoutubeで好プレー集みたいなのを見たりして時間を浪費する。なかなかいろいろとうまく機能しない。怠惰なだけということはよくよくわかっている。