最近見た映画(『デジャヴ』『J・エドガー』『引き裂かれた女』…)

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・デジャヴ(トニー・スコット、2006年、アメリカ)

再見。トニー・スコットの映画は見るたびに同じ言葉がいつもよぎって、それは「覚悟」なんだけど、覚悟とか勇気とか責任とか、そういったことをまるで回避したような人生を送っている私はいつも「見習わなくちゃ」と思う。

冒頭の、そしてもう一度見ることになる埠頭の人波、豪華客船の中の笑顔、駐車場に停められた一台の不審車、流れるマーチングバンドの陽気な演奏とビーチ・ボーイズ。のっけからただただただならぬものが押し寄せてきて、現場に到着して車を降りるデンゼル・ワシントンの姿を見た瞬間に、「もう、こいつにすべてを託そう」という気分になるから不思議。大写しのスクリーンとその前に立つ人間という絵面はいつもエキサイティングで好みだった。ラスト、本当に救われた。覚悟。

 

・J・エドガー(クリント・イーストウッド、2011年、アメリカ)

岡山ではやらなかったのだろうか、上映の情報を一回も目にしなかったのだけど、倉敷あたりではやったのだろうか。市内ではなんでやらなかったのか。今度駅前にイオンができるらしいので、シネコン入れてぜひがんばってほしい。

レオナルド・ディカプリオも側近のアーミー・ハマーも秘書のナオミ・ワッツも若き日も老いた日も素晴らしい演技を見せていた。ディカプリオの見せる傲慢さといくつもの弱さ(自室にこもって母親の服を着てみせる姿や、鏡の前で吃音矯正的にフレーズを繰り返す姿や(レオー!)、側近のトルソン君との痴話喧嘩でトルソン君がグラスをがしゃーんってやって狼狽して「ガラスくだけてるんだから素足で歩いちゃダメだよ」とか「明日の競馬は行くよね、ね、ね?」とか言うところや)が素晴らしくいびつなハーモニーを奏でていた。

それにしても、見ている者が登場人物の行先を案じるのを最初から防ごうとするかのように、サスペンスを最初から排除しようとするかのように、数十年後の変わらない関係が先手先手で映される構成には面食らうものがあったのだけど、これはこのあとも彼らはオッケーな感じで関係ちゃんと続くから、彼らが何を喋りどんな顔をするのか黙って見ていればよろしい、ということなのだろうか。

 

・引き裂かれた女(クロード・シャブロル、2007年、フランス/ドイツ)

最近はツタヤにシャブロル作品がいくつも並んでいるので、なくならないうちにと思い。優雅で軽やかなサスペンスだった。何よりも『石の微笑』のときの真面目で堅物の青年とは対極のような大富豪の放蕩息子を演じるブノワ・マジメルが素晴らしかった。弱々しい笑顔でちょっとは僕のこと好きになってよとお願いする様や過ぎ去る女に向ける投げキッスとジュテーム等々、表情や仕草の一つ一つが本当にダメな感じで、少しばかりジャン=ピエール・レオーを彷彿とさせるような、私のとても好みの動きをしていた。

サスペンスの駆動する事件のタイミングと、そこからの展開の早さ、ほとんどまあ最後はちゃんと引き裂いておくかという思い付きにも見えるような唐突なラスト、最初から最後までなんというか身のこなしの軽い映画というような印象だった。

映画のもとになっているというスタンフォードホワイト殺害事件に関する記事を読んだのだけど、これもまた、ひどい事件で最高だなあと。

 

・SOMEWHERE(ソフィア・コッポラ、2010年、アメリカ)

ソフィア・コッポラは『ヴァージン・スーサイズ』と『ロスト・イン・トランスレーション』は見てどちらもすごく好きで、『マリー・アントワネット』は見ていないのだけど、これはまたけっこう好きだった。こういう場面を撮りたいんだよねという原初的な欲求にしたがって撮影されたものをつなげて一本の映画にしてみましたというような自由で気楽な印象。音楽の使い方も好きで、アメリカにはあんなサービスがあるのかと驚いたデリバリーのポールダンスシスターズ的な人たちがラジカセで流す音楽と一緒にポールに肌がこすれる音が入ってくる感じとか、いくぶんかの切なさとともに好感が持てた。

 

・チェンジリング(クリント・イーストウッド、2008年、アメリカ)

再見。アンジェリーナ・ジョリーに突き付けられる理不尽にやはり動揺。LA市警ひどすぎワロタ、という感じだった。アンジェリーナ・ジョリーの赤い唇に限らず俳優一人ひとりの顔が強く脳裏に焼き付けられる。


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