10月、作曲

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毎夜、今年も正確に秋が深まっていくことに、暦どおりにきっちりと事態が推移していっていることに驚きを禁じ得ない。なぜか、今年こそは寒くならないというような妙な確信にも似た感覚があるらしく、「あ、本当に寒くなってきている」とびっくりしている。認識と現実のあいだに変なギャップができているらしい。なんせ店で動いているときは半袖だし、短パンをはくことにだって躊躇はないし、裸足にサンダルだし、そう思って店を終えて外に出れば空気は冷たく、そろそろパーカーなりなんなりを着始めなければいけないのだと、頭ではわかっていてもカーディガンを羽織ることで、あるいはレギンスをはくことで精一杯で、いちど風邪を引いてみないことにはモードを変えることはできないのかもしれない。

そう言っているあいだに昨日の暇と今日の夜でアタリの『ノイズ』を読み終えた。何が語られていたのか、まるで理解も追いつかないで最後は早足で読むといういつも通りの怠惰な読書だったのだけど、終章で素描される未来の姿は、感触として、まさにアタリが書いたことがいま現実に起きているんじゃないかという、高揚とも違うけれども、「わ」という感じで読んだ。高揚しているのはむしろアタリの筆致で、かなりのハイテンションでグサグサと、素晴らしく立ち姿のいい言葉がそこここに落とされていて、よく意味はわからないけれどもフランスなので「エクリチュール」と思いながら読んだ。そこには希望らしきものが語られていた。音楽を取り戻す、明るい見取り図があったような気がした。ときおり「そうだ!よくぞ言ってくれた!」と思いはせずとも自分が何に同調しているのかわからない同調を覚えながら読んだ。シュプレヒコール。なんで今この言葉が出てきたのかわからない。

1977年、2012年、youtube、ニコニコ動画、ボーカロイド、不完全で不恰好な音楽たち、断片。誰か、『ノイズ』を書き継いでくれはしないだろうか。

 

言葉が窓の外の川のうえに広がる闇の中に溶けていく。掴まえていたと思っていたあれこれの思惑が雲散し霧消していく。夢のしっぽをかつて正確な手つきで放さないでいたはずのその手が、今では包丁を握ること、フライパンを振ること、金を数えることにしか使えなくなっていく。

 

明日は休みで、アンゲロプロス追悼特集上映の最終、『永遠と一日』を見に行くはずだった。しかし私はきっといかないだろう。もはや、面倒くさくなってしまった。今はただ静かに、『野生の探偵たち』のページを少しずつ繰ることを選ぶだろう。あるいは眠りを貪ることに費やすかもしれない。夜にはサイコババのライブに行くけれど、その前か後には、ブッチャーを待つことはせずに、仕込みをおこなったりするだろう。里芋を煮るかもしれないし、他の何かを揚げるかもしれない。揚げるために里芋を煮浸しにすること、あるいは素揚げしたズッキーニを甘酢に浸すこと。それによって土曜日が楽になること。書かれなければいけない無駄な言葉を記すこと。昔のような跳躍やあるいはダンスには期待できず、句点をほうぼうに打ちつけながら、私は出来事にもならない出来事をときおり留めていくだろう。

 

マッカランの最後の一口を飲んだらグラスの底に「P」という文字があるのを見つけた。それを見ながらグラスを傾けすぎ、氷を3つ服の上に落とした。その氷をグラスに戻した。そこに次のマッカランを注いだ。何か書きたいようなことが100あったとして、そのうち10ほどがここにいま書かれた。残りの90はアルコールとは無関係のxxxxの中に溶けて消えた。失われた言葉を求める努力もせず、煙草を吸った。同じ事をあと5回は繰り返す。


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