11月、iPhone5
2012年11月6日
予約していたiPhone5を先日やっと受け取れて、それからは日々いろいろといじくって過ごしている。初めてのスマホが2年ちょっと前に買ったxperiaで、当初はよかったもののだんだんと当該機種はあれこれのアップデートに対応していませんみたいな扱いになっていって、動きもまたたくまに遅くなり、何をするにもストレスフルな状態で、最近では数時間触っていたら電池が切れるとか、なんかのタイミングで通信が途絶えて電源をいったん落とさないともとに戻らないとか、いろいろと不便であったので今回iPhone5にしてその動きのなめらかさ、ストレスのなさに大変な驚きを覚えた。スマホはこんな便利であったのかと今更ながら刮目させられた形で嬉々として様々なアプリを取りました。ただ、アンドロイドと比べた時に不便かなと思ったのは共有系の動きというのか言い方がよくわからないけれど要は見ているページをツイッターでつぶやくなりフェイスブックでシェアするなりエバーノートにクリップするなりはてブでブックマークするなりするところで、ブラウザはchromeを使っていて、ブックマークはおろか閲覧の履歴まで一瞬で同期されているのでさっきまでPCで見ていたものをiPhoneで続きを読むようなこともできるというのには感嘆しつつ、シェアボタンを押しても出てくるものはツイッター、フェイスブック、メール、グーグルプラスだけで、今までだったらできていたはてブとかあれやこれやができず、どうしたものかなと思った。ツイッター、フェイスブックそれぞれに流すことはできるけれど、はてブを使っていたのはツイッターとフェイスブック同時に流せる点が便利だったからであり、それができないのはやはり不便で、ではBufferを使ってみようかと、そうは思ってみたところでchromeからはできない。喫緊の課題です。
それと同時にPCでのウェブ閲覧時にもあとで読む系のサービスを使うべきだよなとこれまでも思っていたので旧read it laterであるPocketを使い始めて、それをiPhoneでも使ったら何かと便利だろうなと思ったので、これもアプリを取ったのだけど、でもiPhoneのchromeで読んでいるものをPocketに入れられないのでどうしたら、と思っていろいろと画策して、当初はものすごい面倒くさい工程をたどった。ごく最近Gunosyという情報収集系のサービスを使い始めて、それがメールで毎日来るようになっているのだけど、それを例にとって見るとこういう感じ。GmailアプリでGunosyからのメールを閲覧、気になった記事があったらクリック、それがメールアプリ上でブラウズされて、そこからサファリを開く、ブックマークからSleipnirで開く、あとで読むクリック。みたいなバカのような流れで、なんでサファリからさらに別のブラウザアプリを起動しなければいけないのかと、まったくもって不愉快な流れだったのだけど、どうやらこれはサファリでもchromeでも変わらないらしいけれどブックマークレットを登録しておけばいいということらしく、それでchromeにPocketへ流すブックマークレットを登録し事足りた。めでたかった。はてブももしかしたらこれと同じ要領でやればいいのかもしれない。
それにしても、いったい、なんのために共有というのかシェアというのか、そういったおこないを私はしたいのだろうか。そういうことを考えだすとアホらしくなる。これと同じくrssとかpaper.liとかgunosyとか、情報収集と私は言うけれど、いったい何のためにそんなことをしたいのだろうか。アホらしくなるから考えるのやめる。まあそれにしても、色々と便利だよね、というところで新しい遊具を楽しんで使っている。
以上の文章を縦書にしてみたとき、何が起こるだろうか、というところが問題で、短いアルファベットの並びであれば若干の違和を伴いつつも縦書の日本語の中でも読めるからいいとも思うけれども、カタカナにするという選択肢もあって、だけどそのとき、意味がかなりのところで漂白されてしまう。先日買ったdommuneから出ている(?)ele-king vol.7がドローン/ノイズのニューエイジという特集で興味があったので買ったのだけど、縦書のこの雑誌はアーティスト名や作品名をたぶんほぼ全部カタカナで表記していて、それがとても不便だった。こういう雑誌を読んで読んだ人たちがしたいことは、そこからとりあえずググってyoutubeなりsoundcloudなりで聞いてみて、それがよかったら買ってみようかなとか、そういう流れだと思うのだけど、カタカナで表記されてしまうとワンクッション動きが遅くなるところがあって、カタカナ検索、こういうアルファベットなのかと知る、コピー&ペ、再びググる、という感じで、なんだか間抜けだし、カタカナのアーティスト名や作品名はけっこう字面としても間抜けだと感じた。iPodが云々というあたりからずっと感じていることだけど、これほどまでに生活の中にアルファベット表記の何かしらが浸透してしまっている今、縦書がどれほどの必然性を持てるのだろうか。少なくとも上述のアプリがどうとか海外のアーティストがどうという文脈の話がされる場においては圧倒的に横書の方が適切なんじゃないだろうか。無理して、書籍だからと縦書になる必要性はないのではないか。
ノイズ。昨日、一日中暴力衝動。自分の脆さ、不安定さに辟易しつつ、すべての食べ物を撒き散らかしたい。すべての食器を割りたい、というたぐいの暴力衝動が腹の下あたりからのぼり続ける感じを一日中、本当に一日中感じていた。もっと徳を積まないといけない。先日見たAKB48のドキュメンタリー映画で、ほとんど初めて動く彼女たちの姿を見たというほどに何も知らない者なのだけど、だからこれもこの映画で初めて知った人物だけどたかみな、たかみなはあんなにがんばっていたのに、私はいったい何をしているんだろう、と思ったら悔しく、虚しくなった。すべてを殴打によって破損したかった。
夜、それが何かの解消にどれだけ役立つのかはまるでわからないながらも本を読もうというところで近くのカフェに行って本を読んでいた。アタリの『ノイズ』に引き続きなぜか、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』を読んで、まったくわけがわからないながらになんだか焚きつけられるものもあるような気もなんとなくしながら無駄に線を引きながら読んでいたのだけど、カフェという名の場所に行っておいてなんだけど人のざわめきがまったく受け付けられず、人の笑い声がまったく不愉快で、だからといってその場を離れて孤独に淫することもできない、まるで中途半端な気持ちで、その対処としてイヤホンをしてすべてを圧する音量でメルツバウを聞いていた。それはノイズの中に美しいヒョロヒョロとした線が走るようなライブ音源だったのだけど、それでもなお、耳の中に轟々と響いてくる爆音は、私が実行できない暴力を代替してくれるような気がして安らいだ。
極めて疲れた。土曜の夜は閉店後に夕飯を食い、そのままソファから一歩も動かずに朝の6時まで寝てしまい、日没で閉店の日曜は閉店時間までまるで一分のゆとりもないような日でやはり閉店後に昼飯を食い、そのままソファから一歩も動かずに2時間ほど寝た。今日は雨だったため予期できた通り暇で、あれこれの仕込みをしたり、溜まっていた伝票の入力作業をしたり、なんだかんだ、開店時間のあいだはゆとりらしいゆとりもなく一日が過ぎた。暇だったにも関わらず。ウラジーミル・ソローキンの『青い脂』を読んでいる。まったくわけがわからない。言語の学習の様相。昨日、前田司郎の戯曲の映画化で、自身が脚本として参加している、ということなのか、監督の名前は聞いたことがない名前だったのだけど、今Wikipediaで見たら石井聰互の別名というか改名したのかしら、石井岳龍の作品の『生きているものはいないのか』を見た。彼女が借りてきたやつで、特段見る気もしなかったし夜も遅かったのでソローキンちょっと読んで寝ようと思ったら、聞こえてきた会話の調子が面白かったのでどれどれと思って見ていたら随所で爆笑しながらけっきょく最後まで見ることになってしまった朝の4時過ぎ。前田司郎は『恋愛の解体と北区の滅亡』でしか知らず、五反田団の演劇は見たこともないのだけど、この映画も『恋愛の解体』に通じる感触があって、それは私にとってとても好ましい感触だった。ただ、あまり安易にそれを肯定し過ぎないようにもしたい。もっと他のことも考えなければいけない。なんの変哲もないキャンパスを使って、スパイ映画を撮るという、そういう方法、と『Playback』の三宅唱がインタビューで言っていたけれど、それも、安易に共感しないでもっと他のことを考えなければいけない。前田にも三宅にも、浅いところで共感してわかったような顔をしては何にもならない。私は私の、しかしいったい何が?