1月、川、

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4時になった。なんでこんな時間まで起きているのかわからない。真夜中の思考というものがある。それは人を浮き足立たせ、自信を高めるか低めるかさせ、要は人を間違った状態に導くものである、と私は書いた。何も特に書きたいこともないのだけれども文章を書きたい。しょうもない、意味もない映画や本の感想を書いても溜飲を下げられるわけでもなく、いま私のパソコンは大きな音量でビヨンセのライブ映像を流している。彼女の歌声はマジカルでアメイジングである。アメイジング、とウディ・アレンはほとんど溜息のような調子でときたま言うだろう。私だってそうだ。アメイジング。高らかに歌われる歌がある。静かに紡ぎ出される言葉がる。

 

紡ぐ。舫う。

 

先日人に貸していたものが返ってきた影響ですぐ手元にある堀江敏幸の『河岸忘日抄』は海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた、と書き始められる。静かで豊かな小説だったと記憶している。河岸に繋留される船のなかで様々な思考がおこなわれるだろう。郵便配達夫とコーヒーを飲み、ぽつりぽつりとした語らいがおこなわれるだろう。船の中での語らいなどろくなことにならない、ということはかつてオリヴェイラが描いた豪華客船の例を引くまでもなく明らかなことで、私はいま、河岸と言っても差し支えのない店の二階で、これを書いているだろう。二階の窓から見える川は今では黒々としており、昼間に、ある角度からその窓から外を眺めれば、窓枠でフレーミングされた光景はまったくの水面のみであり、きらきらと光を乱反射させる水面のみであり、本当に、建物それ自体が川に浮かんでいる存在なのではないかと思われることがある。

 

現在、アンディ・クラークの『現れる存在』を読んでいる。これは年末に下北沢のB&Bで買ったものだ。帯の推薦文を円城塔が書いており、彼の小説は『Self-Reference ENGINE』しか読んだことがないのだが、ソローキンの『青い脂』といい、なぜか彼の推薦を真に受けて本を購入することが続いている。B&Bでは堀江敏幸の作品が様々な棚を横断しながら置かれていた。彼女はその様子を見て堀江敏幸とホリエモンは別人なんだよね、ということを言った。違う人だよ、それはほら、これ、「お金はいつも正しい」って言っている、こっちの人だよ、と言った。こどもがその世界に対して、肉体として埋め込まれており、相互作用しているのだという事実を抜きにしては、認知発達の問題はうまく扱えない、ホリエモンでも堀江敏幸でもなく、アンディ・クラークはそう述べている。実にクールでグルーヴィだ。環境によって与えられた思考。私たちが日々見つめる川のゆらぎは、いったい何を考えろと言っているのか。


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