サイの角のようにただ独り歩め

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さようなら、はてなダイアリー、ということでなんとなく昔使っていたはてなアンテナを見たら、真っ赤な画面の中にたくさんの懐かしい名前を見て、昔はここで好きなブログの更新情報を追って、映画館の上映情報を追って、そうやって、そうやって生活していたのだった、ということを久しぶりに感触として思い出していた。たくさんの懐かしい名前があって、それらの多くの更新が止まっていた。ブログは成仏されない。おびただしい数の更新の止まったブログが、誰からも忘れられて、だけどかつてある日に書かれたのとぴったり同じ言葉がかつておさめられていた場所におさまって、そのままであり続ける。これは、著しく悲しいことではないだろうか。アンテナを使っていたときからも、更新の止まったものがどんどん下に追いやられていく姿を見ながら一抹の悲哀とも呼ぶべき感情を覚えていたわけだけど、RSSで情報を取るようになって久しい今、あの行き場所を失った数々のブログたちの、ほとんど亡霊と呼んでいいその有様は、言いようのない切なさを見る者に与えるのだった。RSSはある意味で亡霊を非可視のものに仕立て上げる。ないものとして取り扱う。ただ、そうだとしてもいずれにしても亡霊には変わりない。

亡霊。亡霊らしく、ブログサービスによってはページの隅っこに定期的に「【PR】早い者勝ち?販売予定新築マンション特集」というような広告が出され、アンテナはその情報を更新として捉えてしまうために死んだまま息を吹き返したような形になる。今も、2007年3月22日14時17分最終更新のブログが、大学時代の知り合いのブログが現れた。それらはいつ、どのようにして己の眠るべき墓場を見つけるのだろうか。

墓荒しがそれを可能にするのかもしれない。うだるような夏の暑い日の朝、墓守たちは愕然とするだろう。夜の間に、何者かが墓を荒らし、腐乱した死体を取り出し、解体し、接合し、ひとつのモニュメントを作成してしまった。それは強い太陽を浴びてぬらぬらと輝き、光っている。おびたただしい数のウジがその上を這っている。亡霊たちが墓に入りうるのはもしかしたらそんな間隙を縫ってでしかないのかもしれない。誰もがそのモニュメントに釘付けになっているうちに、掘られた墓にそっと忍び込む。あとはたとえ咎められても我が物顔に振る舞って見せる。亡霊たちが正確な死を死ぬためには、そのぐらいの厚かましさを持たなければいけないのかもしれない。

何を言っているのかさっぱりわからない。昨夜久しぶりにトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』を見て、その冒頭のシーンの影響でこういうことを言っているのは自明なのだけどそれにしても何を言いたいのか。言いたいことなんてひとつもない。というのは強がりかもしれない。大学時代、今、ブログをこうやって始めて、とても大学時代の自分をロールモデルにしている感があってあの頃自分はいったい何を思ってどんな手つきで書いていたのか、仔細に分析しているところでは一切ないのだけど、あのころ本当にいったい何を考えて書いていたのか、聞いてみたいような思いはある。『悪魔のいけにえ』は20分ほど見たところで眠った。

フェイスブックにあがってきた友人がタグ付けされた写真についた文章に「りえちゃん♡ずっと友達でいてね꒰๑͒•௰•๑͒꒱♡ℒℴѵℯ*¨*•」という類のものがあって、顔文字の複雑さに舌を巻いたことはいいとして私の友人の名前はりえちゃんではなくゆうたくんで、ゆうたくんが出席した飲み会の写真がアップされていた模様。おそらくりえちゃんもその写真の中にいて、ゆうたくん同様タグ付けされているのだろう。友達とはいったいなんなのだろうか。ということはここ何ヶ月か、一ヶ月ぐらいだろうか、考え続けていることで、フェイスブックというリアル、という言葉はすごく嫌いでリアルもバーチャルもあるかということしか思わないのだけど、リアルの交友関係が可視化されるツールにおいて、あまりに「友達」が増えてしまい、いとも簡単に増殖してしまい、この「友達」の敷居の低さにおののくとともに、よりいっそう友達という存在が貴重に思えてくるのだった。フェイスブックの「友達」の中にいったいどれだけの友達がいるのか。私にはよくわからないし、いるにはいるというかちゃんといるつもりではこちとらいるのだけれども、友達とはいったいなんだったか。件の写真が言う友達はどちらの友達なのか。「ずっと(フェイスブック上で)友達でいてね」であるならば通りはよい。たとえりえちゃんが彼女のフィード購読をやめてしまおうが、「友達」であることには変わりがないから、「ずっと」そういられるだろう。ただ、そうではなく「ずっと(私の中にある概念に該当するものとしての)友達でいてね」であれば自体は複雑な様相を帯びざるを得ず、コメントを返すとしたら「それは保証できないし、そもそも貴女のおっしゃる友達の定義はいったいなんですか」ぐらいしか言いようがない。
フェイスブックにはたくさんの功罪があると思うけれども、その大きな一つが「友達」という言葉を単純な記号に変えてしまったことだ。もはや友達など、カッコつきでしか存在し得なくさせてしまったことだ。フェイスブックをやっていて「いや、友達じゃないし…」と思ったことのない者はいないだろう。でもそれは承認を押した瞬間に「友達」になるわけで、「友達」はもはや、明示的な承認という手続きを経て成立するようになってしまった。なんて時代だ。ザッカーバーグはどんなコンプレックスを抱えていたのだろうか。そういう意味では「マイミク」という極めてなんでもない名称を使っているミクシィの方がよほど精神的には健全かもしれない。

それと関連して週末に東京から遊びに来てくれた友人と酒を飲む機会があり、延々と、中途半端な映画好きとして映画についてひたすらにしゃべっていた。映画よ、自分の足で立って歩め、ということになった、ような結論に至ったような至らなかったようなどんな結論も求められていない、解も求められていない。蜂起すること、つまり、問いを発し続けることこそが、私たちの、すべきこと、なのか。先日読んだ『蜂起とともに愛がはじまる』についてはいろいろと思うところがあるけれど、私は別にどう生きても構わないし、映画と思想がアクロバティックに手を取り踊る姿を見ていられればそれでいい。なんのことだったか。つまり、シネフィルとされる人たちの正体はシネキルだったのではないかということだ。それもシリアルキラーに他ならず、さらに夜な夜な墓を掘り返して腐った死体を切断して積み上げて醜いモニュメントを作成していたのは彼らなのではないかということだ。その罪はフェイスブックのそれとは比べ物にならないほど重い。


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