2月、ゼロコストハウス、快楽を
2013年2月8日
文章を書き続けている。なんのためというわけでもないのだけど、昨夜にある媒体のために文章を書いたところ、ブリがついてしまって(これは岡山弁だったっけか。勢いがついてしまって、という意)、休みである今日は、遅い時間の昼食をしょうのない定食屋で食べたあとから3時間書き続け、『アウトロー』を見て帰ってきて1時、そこからまた3時間書き続けた。先ほどカウントしてみたところ、今日だけで10577字書いている。たぶん、それは多い分量だと思う。夜、1時過ぎだったと思うが、外で男が絶叫するのが聞こえた。刺されたりして出た声というたぐいのものではなく、腹の底から、絶望めいたものを絞り出すためにされるたぐいの絶叫だった。道端で会いたくはないけれど、それでいいんじゃないかという気分は伝えたいような気がした。人は時には、叫んだりしたっていいんじゃないか。多少の迷惑など、度外視していいんじゃないか。
ここのところは、ささくれだった気分を継続させていた。多くの事物が鬱陶しい。時間の配分が全然うまくいっていない。へとへとに疲れた閉店後の12時半から数時間、本を読んだり、映画を見たり、あるいは文章を書いたりして、でもそれでは寝る時間が遅くなって、睡眠時間が削られて、そして次の日の疲労につながる。今だって、すでに4時だ。9時半には起きたい。悪循環が続く。
お金を稼ぐことは、もちろん最低限はしなくちゃいけないけど、でも、ほんとに最低限でいいと思ってたんですよね、と岡田利規は「ZERO COST HOUSE」の中で過去の岡田のセリフを言うマネージャーに言わせている。でも、ほんとに最低限でいいと思ってたんですよね。でも自分の時間は最低限じゃだめで、ものすごくたくさんほしくて、どうでもいいことに時間を取られたくないってすごく思ってて、と。15年前、岡田利規の23歳のときの気分だ。その23歳の岡田利規に向けて、別の場面で坂口恭平が言う。だからそれは働きすぎだからね。ていうか時間取られすぎてないですかバイトに? 身を粉にしすぎじゃないですか? じゃあ書く時間どうしてるの、確保できてる? できてないだろ。本末転倒じゃん。
あれや、これやが、アクチュアルに私のうちに響くだろう。フリーキーな、あるいはノイジーなギターを弾く人はきっと、最初からわかっているんだと思う。自分の弾くギターの音色が、ある人にとっては耳障りなものでしかないことを。一方で、流麗なギターを弾く人のいくらかはそれがわかっていないのではないか、と感じる。ほとんどアプリオリに、自分が爪弾くギターは万人にとって心地のいいものだと思い込んでいる。そういう人には最初から、どんな疑いもないのだ。自分が好きなものは、人が好きだという、アロガントな姿勢。このアロガンスは、「ZERO COST HOUSE」で岡田が語る、岡田が引き受けてみるそれとはまったく別物だ。自覚的なアロガンスと、無自覚のアロガンスでは天と地ほどの差がある。そういうことをわからないまま、このまま生きていき、死んでいく人がたくさんいるのだろう。
最近、徹底的に自分語りをする人間に会った。信じがたいレベルの凡庸さで、その人は自分のあれやこれやを語ってくれた。そこに当時しているときは、この人はなんのつもりでこんなことをしているんだろうかと、呆れと嘲りと憤りしか湧かなかったのだけど、後々で考えてみたらそのやばさはけっこうなやばさだと思えてきて、とても興味深いものに思えた。録音しておけばよかった。あの凡庸さは、出そうと思って出せるたぐいのものではなかった。
文章を書き続ける。文章を書くことにはいつだって快楽がないといけない。ここのところ、映画を見たら感想を書こうと、年始に決めて、年の変わり目で決めたことなんて、どうせその程度のものでしかないのだから、と鼻で笑う人間が何をやっているのかとも思いつつも「矛盾」がミドルネームである私は律儀に、映画を見るたびに、本を読むたびに、ブログを更新して、そしてそこには一つの快楽もなかった。こんなことを続けていて、どんな意味があるのかと思っていた。それはもちろん、読んだ本、見た映画についてメモ書きでもいいから残しておけば、のちのちに少しは役に立つような気もしたし、アウトプットしておくことが、その作品と自分をつなぎとめる何かのきっかけになるとも、それは今も思っているから、2月の現時点ではそれを絶やさずにやっているのだけれども、だけど、そこにはどんな快楽もなかった。文章を書くことにはいつだって快楽がなければいけない。その快楽は、昨夜にもたらされた。さっきもどこかで書いたように、ある媒体のための文章を書いているとき、何か、突き抜けるような心地よさがあった。それを引きずりながら、今日1万字の文字をしたためた。快楽が、何食わぬ顔をしながらずっと体の芯を通っている。
この状態を維持したい。そして、たしかに、素晴らしい映画や、本や、そういったものを誰か、極わずかのこのブログを読んでくれている人に向けて発することが、何か素晴らしいものをガイダンスすることが自分のやるべきことのようにも思えてきたふしはあったけれど、そうでなく、何か、こう、作ることを、作業し、形を積み上げることを、そろそろ、再開してもいいような気もしてきた。不時着した飛行機を解体し、おんぼろのフェニックス号をこしらえるような手つきで、私は私のフェニックス号めいた何かを、そろそろ、そして重い体でその機体を引っ張り、滑走路まで引っ張り、プロペラが徐々に、確かに回り、いつか空を巡る。
本日、12868字。