2月、日記

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今日スタバにいたら、横の席の人が「アンティークと現代アートが好きなの」と言っていた。私は彼女のための文章をいつか書きたい。

 

今日は店は休みで、13時に起きた。コーヒーを飲みにいき、近くでやっているギャラリーでジンの展示を見、店に戻り、昼飯を食べたら眠くなった。気づいたら6時半だった。休みをうまく休めたことがない。いつもこんな感じで、不毛に過ぎ去る。毎日あれこれを生産しているのだから、生産的に過ごしたいと言うのも馬鹿のようだし、何をそんなにがんばらなきゃいけないの、鞭打たなきゃ、とも思うのだけど、生産的な休みを過ごしたい。起床後、外に出、スタバで店のブログを書いていた。スタバが私のオアシスでありナンバーガールだ。オアシスは聞いたことがない。ナンバーガールが青春で、青春というとジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』で万引きか何かをしようとした若者に向けて本屋の主人が「君の名は青春だ」と言って本をあげる、というのを思い出すのだけど、記憶違いかもしれないけど。

 

スタバに行く前に丸善に寄る。昨日岡田利規の演劇論を読み終え、現在はマヌエル・プイグの『リタ・ヘイワースの背信』を読んでいるのだけど、ずっと読み続けるのはしんどい小説なので一緒に読むものが必要だったからで、今日は渡邉大輔『イメージの進行形』を買った。楽しそうで何よりだ。著者略歴を見ると二つしか年齢が違わない。ずいぶん若い人が書いているのか。早く読みたい。丸善はリニューアルしていた。知らなかったけれどジュンク堂と同じグループだったらしく、そういえばそんなことが『松丸本舗主義』にも書かれていたような気はするけど忘れていたけど、だったらしく、今までジュンク堂で見てきたレイアウトだった。背の高い本棚がけっこう狭い通路にびっしりと並ぶ、威圧感のあるあれだった。私はあれはとても好きなので、好ましい変化だった。一方で、今までの丸善の背の低い本棚の、いつでも店内全体が見渡せる気になるあの感じも嫌いじゃなかった。たぶん、本屋が好きということでいいのだろう。ジン展では松丸本舗にインスパイアされたような感じの書籍案内系のジンを買った。好ましかった。ところで丸善があんなふうになったけれど、徒歩でいける範囲で岡山にはジュンク堂がある。どういう棲み分けになるのだろう。

 

スタバで10時まで、長居しながら長居について書いていた。経営しているのは飲食店で食事を出して金銭をいただいているわけだけど、私の興味はやはり、場と時間の提供ということにあるみたいだ。スタバにはサードプレイスという言葉があって、職場でも家でもない、第三の、リラックスできる場所、というような感じだと思うけれど、いかにして誰かのサードプレイスを作るか、ということを考えるのが面白い。面白いというか、そういう場が本当に必要だといつも身にしみて思っているから、そういう場を具現化したい。どんどん、行ける場所がなくなっていく感じがする。怖い。

 

店に帰り、家に帰り、ではなく店に帰り、であって、いつもこんな感じで、家はもう本当に、寝るための場所か、寝る前に映画を見るための場所になっているのだけど、店に帰り、帰ると、彼女が夕飯を作っていてくれた。本屋とスタバのあいだでデパートに行って赤ワインを買っていたのでそれを開けて、煮込みハンバーグ等によって構成された夕飯を食べた。とても美味しかった。

 

ご飯を食べ、ダラダラしたのち彼女が家に帰っていった。私は煙草を吸いながら店のブログを書いた。友人に長めのメールを打った。友人からのメールで面白かったところ:最近飲食店のあいだでフラッシュマーケティングは「銀行」と呼ばれているとのこと。資金繰りに困ったときに大きなキャッシュが入ってくるから、ということらしいけれどなんだか面白い。これが恒常化していくと出版社と取次の関係みたいになるのだろうか。それがどういうものなのかよくわかってないけど。

私の店も、一度だけフラッシュマーケティングのサービスを利用したことがあって、旨味も感じられず全然やりたくはなかったのだけど営業の人の熱意に負け、この人のためだったらやっていいか、と思ってやった。本当に、人を見る目がないなと思った。蓋を開けてみればもう全然信頼できる人ではなかった、ことがわかった。そのあとも一度だけ有料で広告を出したのだけど、それも営業の人がいいなと思ってで、それも、最後は同じ感覚になった。この人ほんとうに嫌だ、という感覚で終わった。もう二度と、営業マンを信じ、その人の仕事を応援してみよう、という姿勢で何かをすることはやめよう、と神に誓った。これ以上書いているといろいろなディスになりそうだからやめることにした。総じて、という思いがある。

 

日々、知性とは何か、となんとなく思っている。思っているというか知性って何かなーと思うだけなので、まったく考えは発展しない。私が何かに対して「あーこれは知性を感じるなあ」と思う時の知性はすごく打算的で退屈なもののような気がする。知性を矮小化している気がする。もっと大きく、エキサイティングなものであるはずだ。というか「矮小化」が変換できない。あまりに変換できないのでそもそも「わいしょうか」ではなかったのじゃないかと不安になってしまった。グーグルに聞いたらお前は合ってるよって言ってくれた。いずれにせよ、私が思う小さいもので、大きくエキサイティングなものでも、どちらの意味でも私は知性的にありたい。


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