3月、公共性、フライト

cinema text

ロバート・ゼメキスの『フライト』を見てきた。デンゼル・ワシントンの笑顔のストップモーションで終わったその映画は、いい話だなあと思いながらも、やはり私のなかに何も残さないような気がすでにしている。不感症の日々が続く。映画的な興奮とはなんだったのか、あ、映画、ああ映画だよな、やっぱり、というあの感じは、どこに消えたのか。映画からしか得られない感動というものを、少なくとも『フライト』は与えてはくれなかった。誇りとは何か、それはいい話だったろうし、アル中のデンゼル・ワシントンの姿にドキドキと緊張したりもした。フライトの場面の緊迫感も、それはすごかった。だけど、なんでこんなに何も残らないのだろうというぐらいに、見終わってしまえば、何も残らない。私は大丈夫なのだろうか。この後の人生でも映画を愛し続けることができるのだろうか。それを考えれば一抹の不安も覚えるだろうし、その不安をかき消すために今は2本目のビールを飲んで、そして空腹だったからか、そもそも弱いせいか、けっこう酔った気分になっている。誇り、それが何かを示すためにデンゼル・ワシントンはいつだってスクリーンにその姿を見せるのだろう。私はワシントンではなくいちいちデンゼル・ワシントンと打たなければ納得出来ないこの事態に対しては決して悲観的ではない。

 

そもそもこの一日、私たちは店を不当に休んだ。当初の予定では今日は営業がおこなわれ、飯が振る舞われ、対価をいただき、生活をなす。そういう一日にいつもどおりになる予定だったが、どうにも、今日は、ダメだ、これは、という双方の理解によって休日となった。公共性ということに対して考えてみてもいいだろう。そんなものは犬にでも食わせていればいい、と言って済めばとてもいいが、そういうものでもない。私たちは、このあと、どのように生きるのか。少なくともそれはスレイブな感じではなく自分の人生の主は自分だけであるという信念に従いながらのものになるだろう。コンビニの店長はこう書いた。従わないがためになにかを失うとしても、その失うものが俺の存在そのものを脅かさない限りはいっこうにかまわない。そうだよなと肯んじた。今日一日、タバコを吸い過ぎたがために喉が今、とてもイガイガしている。だけどタバコと打った瞬間に、もう一本、火をつけたくなった。そしてつけた。のどが痛い。酔っ払った。今の私には、何一つとして書くことがない。かつてのブログを読んでいるといつだって生き生きとしていて、ああ、君の生きる場所はここなんだな、とてもいいと思うよ、その文章、そのテンポ、その書きっぷり、と思う。この文章を、1年後2年後の自分が見たとき、そう思えるのだろうか。今の段階では到底そうは思えないような気がする。私は書くということを失ってしまったのだろうか。それを考えると、けっこうなところ不安になる。

 

デンゼル・ワシントンがパイロットでなければ100名の命が失われた。彼は被害を最小限にした英雄である。事故は、彼がアル中であること、フライト前にもフライト中にも飲酒をしていたために起こったことではない。事故自体の責任は彼にはない。しかし彼は何百人もの命を預かる立場にありながら、恒常的に飲酒をしてフライトに臨んでいた。事故はいずれにせよいつかは起きていたかもしれない。繰り返すが、だけど今回の事故の責任は彼にはない。今回の事故における彼の判断は抜群に素晴らしいものであった。今回の事故において、彼の行為は間違いなく英雄として値するものであった。

彼の逮捕の報を受け、国民は、メディアはどう反応したのだろうか。

 

なんもない。なんもない。なんもない。そんなこともない。とても前向きな気分だ。数々の計算の結果、好ましい青写真が描かれた。それがこの一日だった。


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