4月、バルガス=リョサ、世界にひとつのプレイブック

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フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

この地において時間を割いて夕飯を食べるためには高いモチベーションが必要で、それが特にないために今晩は食べていないのだけれども、お腹はやはりすいてくるために先ほどビールとともにミックスナッツを皿に入れてつまんでいるところはあって、だから夕飯を食べていないという話は半分以上嘘になった。裸電球が私の人生を照らしている。限られた時間のなかで、分かりもしないコードをあれやこれや修正してはリロードを繰り返しながら、店のウェブをいじっていた。今晩は本を読もうと、そう決めていたのに結局そうやっているうちに2時になってしまった。休みの前の日も同じ事をしていて、迎えたのは6時で、空ははっきりと明るくなっていた。

 

これまでマリオ・バルガス=リョサという作家については、『若い小説家に宛てた手紙』をだいぶ前に読んだだけであり、それがたいして面白いこともなかったのでラテンアメリカ文学を読みたいと思っていても手を出す気にはなれないでいたのだけれども、少し前に店に遊びにきてくれた友人が河出だっけ、池澤夏樹が監修の文学全集、ちくまだっけ、何にせよ、あれに載っているバルガス=リョサのやつはとても面白かった、と言っていたため、それでは挑戦してみるかと思っていたのだけれどもいざ書店でそれを手に取ったら分厚いし、ゴーギャンとゴーギャンの誰かがどうの、ということが書かれていて、別にゴーギャンのことを読みたいという気もせず、それで他にあった『フリアとシナリオライター』を買った。どれでもよかったといえばよかったのだけれども、エピグラフの書く僕を見る僕を見る僕的な書くことへのどうのこうのが、私には面白いかもしれないと思いそれを選んで、でもいざ、それはボラーニョとともに買われて、ボラーニョを大変な喜びのうちに読み終えた時に、いざ、バルガス=リョサ、となると面倒というか、バルガス=リョサはもういいから『2666』に行きたいよ、というような気分には支配されて、だけどまあ、買ったのだし読んでみようと読み始めたらそれがすこぶる面白く、500ページ近い小説だったけれども10日ほどで読むことになった。これは、本を読む時間を取れない、と日々嘆いている私からすればけっこう珍しい速さでの読書だった。

 

ボラーニョの語り手たちもそうだったけれども、バルガス=リョサの語り手も、若い、金のない小説家志望の男で、彼らの溌剌とした生き方を見ていると、なぜ私はまだ若いといえるこの年で、こんなにも守りに入ったような気分で生活しているのだろうと思ってしまう。彼らはいつだって金がないなりにどうにかする。岡田利規が「ゼロコストハウス」で登場させた坂口恭平に言わせているように、だからそれは働きすぎだからね。ていうか時間取られすぎてないですかバイトに? 身を粉にしすぎじゃないですか? じゃあ書く時間どうしてるの、確保できてる? できてないだろ。本末転倒じゃん、ということを、ラテンアメリカの若くエネルギッシュな男たちを見ていると、ひどく痛感するし、むやみに惨めな気分になる。

 

『フリアとシナリオライター』を読み終えたあと、前の休みの日にいった蟲文庫で買ったたしか中央公論社の、と思ったら集英社だった、集英社の世界文学全集のラテンアメリカの回の、そこにはボルヘスやガルシア=マルケスやプイグやドノソ、あと誰だったかな、そういった面々の長編がいくつかと、いろいろな人の短編が載っているのだけど、その中にバルガス=リョサの「ある虐殺の真相」があったので読んだ。ペルーの山地で起きた虐殺事件の真相を調べに行った記者団が虐殺されるという話だった。彼らを殺したインディオたちは調査委員会の聞き取りにたいして、「はい、彼等を殺しました。どうして?間違えたからです。人生は誤りと死に満ちてはいませんか?」と語る。彼らにとっては殺すことが生きる環境のなかに組み込まれている、とバルガス=リョサは書く。それが印象に残った。感想としては「うわー…」というところで、これもまた非常に面白かった。蟲文庫ではこれとともにドス・パソスの、これが中央公論社だった、『マンハッタン乗換駅/あらゆる国々にて』を買って、ドス・パソスの作品はあまり手に入らなそうだし、いい買い物だった。名前はラテンアメリカでもありそうだけどこの人はアメリカの人なので、北上するのはまだ待つことにしてもう少しラテンアメリカを堪能してからいつか読みたい。けれどわりと早く読みたい。

その前に丸善で能勢伊勢雄『新・音楽の解読』の発売を記念したブックフェアがあって、そこには松本俊夫『映像の発見』とか平倉圭『ゴダール的方法』とかバルト『明るい部屋』とか『メカスの映画日記』とか、いくつかの読んだことのある、とても好きな本があったのだけど、その中から向井周太郎『デザイン学 (思索のコンステレーション)』を『新・音楽の解読』とともに買ったので、それを読もうとも思っているけれど、開いてみると中々に難しそうで、まるで知らない分野でもあるし、使われている言葉もわからなそうだし、読める気もあまりしないでいる。それに今はなぜか、フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』を読みたい衝動に駆られている。

 

今は小説を読むことが面白い。映画はよくわからない。先日デヴィッド・O・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』を見たけれど、私には痛みが強すぎて、いい話だったとか、ジェニファー・ローレンスの演技が素晴らしかったとか、そういうことでおさめる気には到底なれなかった。痛みが欲しい、と言って作品に満足できなかったことを言い訳してみせたり、痛かったら痛かったで「痛くて辛かった」とか言って終える、私はいったいどうしたいのだろうか。何を見たいのか。

 

2本目のビール、2皿目のミックスナッツ。2時40分。不毛という言葉を思う。


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