5月、Sylvain Chauveau、セルヒオ・ラミレス(続き)

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ただ影だけ (フィクションのエル・ドラード)

火を借りるために私の目の前で急停止した男は、タバコに火をつけると白くて花っぽいフレームのサングラスをつけ、無一文なんですよ、と話し始めた。マクドナルドの前は片側二車線で深夜でも往来のある通りだったから、早口の男の言葉の大部分は過ぎていく車と風の音にかき消されて、だけど私は特段聞き返したりすることはなかった。深夜1時過ぎにいきなり現れたストレンジャーと話をすることもないような気がしたし、互いに無言で一本タバコを吸い終えたらそれでいいじゃないかとも思いはするのだけど、財布をなくしてカードを止めたので2日間無一文で、と男は言った。清々しそうですねそういうのも、というような言葉を私は返した。結果、5分以上のあいだその男と私は談笑をした。彼の郷里、彼の仕事、彼の住まい、彼のお気に入りの店、そういった情報を私は得ることになった。彼はゴールデン・ウィークのあいだ、ひたすら自転車をこいで岡山を移動していたらしかった。そうすると、天気もよかったし、喉が乾いたりするのでは、と問うてみると、公園にいけば蛇口があるし、コンビニなんかでも、言ってみれば150円くらいならくれてやる人というはざらにいる、と言った。コミュニケーションに対して壁を作っているのはいつも発し手であり、受け手は思われる以上に柔軟なのかもしれませんね、柴崎友香の小説にも、そういう他者とのアクシデンタルなコミュニケーションを渇望とまでは言わずとも、そういうことがあってもいいのにって思うくだりが一時期よくあったように思うのですが、だから、その時期の彼女の小説にはそういったコミュニケーションとトリップ、それは大阪から東京、そしてメキシコ、あるいは石垣島やトルコもそうかもしれない、総じてアクシデンタルなものを求める声がよく聞かれたように思うのですが、まあなんというか、いい過ごし方じゃないですか、それはそれでとても。そうかもしれませんね、ゴールデン・ウィークはそちらは何をされていたんですか。はい、私は仕事をしていました。

 

ゴールデン・ウィークというものがなんだったのか、今の私にはもはや判然としないし、なぜグーグル日本語入力はいちいち中黒点を入れようとするのか疑問というか苛立ちもあるし、いい思い出も何もないけれど、そのゴールデンの谷間というのか、3連休と4連休のはざまの5月1日に、店の地下室でSylvain Chauveau、そして彼が率いるコレクティブ、0のライブがあった。コレクティブ、という呼び方を今回初めて聞いた。その結果、50人近くの人が店の地下室に集まった。気のいいフランス人3人組は一様に背が高く、私でも随所で屈まなければいけない地下室を行き来するのはとても窮屈そうだった。せっかく遠くフランスから日本にやってきたのに、こんな巣窟のようなところでライブしなければいけないなんていったいどういうことだ、という文句が出たという話は今のところ聞いていないのでよかったのだけれども、そこでおこなわれたライブは本当にいいものだった。

今回の日本ツアーでは唯一フルアコースティックの演奏だったらしいのだけど、それはもしかしたらとても正解だったのかもしれないと私は思ったし、多くの人もライブを見ながらそのように考えた。

シルヴァンやジョエルのギターのかすかな爪弾きや、ステファヌの多彩なパーカッションへのかすかなタッチなど、微細な音の響きが何にも増幅されない状態でじかに空間を満たし耳に届いてくるあの感覚は、アコースティックならではのものだった。ここで私が彼らをファーストネームで呼んでみるのはなぜなのだろうか。会場提供者として自己紹介をし合った仲だから、いいじゃないか、みたいなところなのだろうか。横柄であるとか傲慢であるとかのそしりは致し方がないことかもしれないが、それはいいとして、いずれにせよ、見た人の一人が「新しい生命の息吹って英語でなんていうんだろ」という感想を漏らしていたけれど、本当にそういう春っぽい感じを感じられる気持ちのいいもので、想像していた通り、それはミニマルミュージックがどうとか、現代音楽がどうとかの堅苦しいタームを出さずとも十全に心地のよい演奏だった。私はビギニングオブザライフみたいな感じじゃないですか、と返した。

 

その数日後、やっとゴールデン・ウィークが終わりを迎えた夜、店を閉めると私はマクドナルドへ行き、セルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』を読み終わらせた。

ニカラグアの小説で、数十年の独裁を続けていたソモサ王朝をサンディニスタ解放戦線が打倒し、政権を取る、ちょうどその移行期の話で、作者のセルヒオ・ラミレスはサンディニスタの戦士としてたぶん戦った人で、のちに副大統領を務めたりもしている筋金入りの元政治家の方で、政治を引退してからは小説を書いて生計を立てている、というようなことが訳者解説にあったような気がした。

主人公として描かれているのはソモサの側近だった人物で、

とか、サンディニスタがどうとかソモサがどうとか作者がこういう人でとか、私には珍しくなんというかそういう外側のことに興味を持って読んでいたし、わざわざニカラグアの内戦の歴史をウィキペディアでとは言え勉強して、いやーアメリカとかCIAってやることがえげつないよなあとか思ったりもしたのだけど、なんだか歴史の勉強って面白そうですね。私は国内国外含め歴史のことは本当にまったく疎いので、いちいち新鮮というか、なんか何を書いているのかわからなくなってきたのだけれども、まあだけど、そういう外側の出来事に引っ張られて小説を読むというのはやはり、健全ではないというか、健全ではないというわけではないにせよ、それだけでは面白いこともなくて、そういう点では『ただ影だけ』は「へ~ニカラグアってそういう」という興味しか引かない部分はあって、つまり、小説として、何か、躍動するイメージのようなものを私にもたらしはしない感じがあったので、どうかなというところはあった。いろいろと技巧や構造のところで作者が工夫をしているのはよくわかるのだけど、それが別段、私にはエキサイティングなものには感じられなかった。

そういう気分で読んでいて、残り100ページぐらいのところで私は昨夜マックに行ったのだけど、最後の方はもう、すごい面白かった。狼少年という、側近の元同僚的な軽口を叩く人物が出てきてからの動きが怒濤で、そこからというか以下はネタバレ及び大事な場面の引用になるのでそういったものを読みたくない人は読まない方がいいと忠告しておくけれども彼らは民衆裁判にかけられるのだけど、そこでの狼少年の裏切り的な振る舞い、民衆からの拍手喝采、無罪放免、そしてそのあとの側近のしどろもどろ、有罪、処刑、というあたりを描いた筆致はけっこうえげつなく、特に側近の極まった狼狽ぶりは読んでいて目をつむりたくなるようなものだった。

男は拍手をしました、とその裁判を13歳のときに見ていた、かつて少女だった中年の女の証言としてその模様は描かれる。怒り狂う民衆の前で自らの潔白を説明し、拍手がどっと起きれば無罪、という裁判だ。そこに向かう前の場面で狼少年は側近に小難しい話なんてするなよ、笑わせたやつが勝ちだ、お前はソモサがプールの中でうんこをもらした話をしたらいいじゃないか、ネタとして最高だろ、なんせお前はそのプールの中にいたんだし、とアドバイスを送るが、狼少年という愛称に従うように、男はそのネタを使って民衆からの喝采を受けた。意味のない拍手を繰り返したあとに、側近の男はうろうろと歩きまわり、すると突然、紳士淑女の皆さん、お嬢様型、お集まりの方々、一つ愉快な笑い話をお聞かせしたいと思います。よろしいでしょうか、と言う。黙ったままでいる民衆を前に、話をお聞きになりたい方、どうぞ温かい拍手をお願いいたします。また沈黙です。男は笑って、予行演習ですよ、と言いましたが、聴衆は沈黙したままです。そう中年の女は回想する。

演壇の真ん中に立ち止まると、あの男は数歩進み出て、皆さん、かつて大学にウルピアノという教授がおりまして、と小話を披露する。それは作中で一度読まされているエピソードだったが、そう面白くもない小話を文字通り命がけで話すその様子は、そしてその滑りっぷりは、読んでいて本当にえげつないものだった。すると男は笑い方を変えました。今度ははらわたをよじるように大きな笑い声を上げ、舞台の上を右へ左へと移動しながら、ますますせわしなく手をたたきだしたのです。そうです、私はあのプールに首まで浸かっていました!今日にいたるまで、何度風呂に入ってもあの臭いは体から消えません!拍手をお願いします!お手を拝借!いやらしい笑い声をまた上げながら、そうやって何度も拍手を求めましたが、人々は壁のように沈黙し、いらついた蜂の羽音を高めていくだけです。

 

訳者である寺尾隆吉の略歴を見たところ、昨年末に読んだ『無分別』が大きな衝撃だったオラシオ・カステジャーノス・モヤの他の作品が訳されていることを知った。なので今日丸善に行き、そこではガルシア=マルケスの『愛その他の悪霊について』を購入し、モヤの『崩壊』は注文しておいた。これは現代企画室から出版されているものだ。その出版社についてはこれまで名前すら知らなかったのだけど、サイトを見てみるとけっこうラテンアメリカ文学も出しているみたいで少しずつ読んでみたいし、今回のセルヒオ・ラミレスのは水声社のラテンアメリカ文学シリーズ、「フィクションのエル・ドラード」の一つ目ということで、ここからの展開も楽しみだ。エル・ドラードは黄金郷の意味らしい。読む選択肢が広がっていくことは単純に嬉しい。

ところでモヤ、今回なぜアマゾンでワンクリックで買わなかったのか。それは、アマゾンで注文した『ただ影だけ』を読んで改めて、やっぱり本は本屋のカバーがついていてほしい、バッグの中でも安全だし、読み終わってカバーを取るのが好きだから、ということを痛感したためだった。そのため客にとってもたぶん店員にとっても面倒くさい注文をレジでおこなったわけなのだけど、やっぱりこれは作業としては結構面倒くさいしかったるかったので、今度からは素直にアマゾンで注文するかもしれない。

そういうことなので今後の読書予定は以下の通りです。ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』、次いで本日注文したモヤ『崩壊』、そのあとニカラグアの内戦の歴史に興味を持ったついでにチリのクーデターってどういうことなのかなと興味を持ったのでイザベル・アジェンデ『精霊たちの家』。そんな感じでどうでしょうか。よいと思われる方は拍手をお願いします。どうぞお手を拝借。お手を拝借!


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