マリオ・バルガス=リョサ/都会と犬ども

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都会と犬ども

先日読んだセルヒオ・ラミレス『ただ影だけ』、それと同じ水声社のラテンアメリカ文学シリーズ「フィクションのエル・ドラード」次回配本のフアン・ホセ・サエール『孤児』、今日読み始めてやはりものすごい面白いオラシオ・カステジャーノス・モヤ『崩壊』、いずれも寺尾隆吉の翻訳によるもので、彼はここのところの私にとってホットな翻訳者なのかもしれないというところもあり、その名前でググったところ、「寺尾隆吉選・邦訳で読むラテンアメリカ文学の20作、プラスワン」というページを見つけ、そこにこの作品が入っていたこともあり、というよりは、そのあとにチョイスされている『世界終末戦争』の選評のなかに「『フリアとシナリオライター』といったやや見劣りする作品」という言葉があり、え、フリアとシナリオライター、あんなに面白かったのにやや見劣りなのか、それではやや見劣りしないらしいそれらのどちらかを読んでみよう、というので、注文していたモヤの『崩壊』がすぐに来る予定だったので薄い方ということでこちらを買ったのだけど、薄いとは言っても2段組の400ページ超で、読み始めはどうにも、ここで描かれる士官学校の生活を私は面白く興味を引きつけられて読むことができるだろうか、どうにもできない気がしてならない、というような感じで、読み終えることに不安を覚えていたのだけれども、そう面白くない状態で少し読み始めたらどこかから一気にドライブが掛かってしまい、「続きを!早く続きを!」という色狂いの猫のような状態になりながら私にしてはずいぶん速いペースで最後まで一気に読むことになったその横で彼女は保坂和志の新刊である『考える練習』を面白い面白いと言いながらずいぶんはまりこんで読んでいて、今も変わらず保坂和志を信奉する私としては、その「一気に読むことになった」という状態について躊躇なく良しとすることは到底できないとは言え、「面白い、次、次!」という小説体験はそれはそれでまったく問題ない、そういうことがあってもいいものだと言い聞かせることにして、この『都会と犬ども』は素晴らしく面白い小説だったと言いたいし、結局のところバルガス=リョサの巧みなストーリーテリング、構成の妙、そういったものにまんまと飲み込まれたという格好だったわけで、一方で保坂和志をやはりこちらも一気呵成に読み終えた彼女は途中まで「キリスト教面白い!」と言ってあれこれ内容をこちらに教えてくれながら読んでいた講談社現代新書の『ふしぎなキリスト教』を指して「保坂さん読んだあとじゃキリスト教とかぬるいわ」というような趣旨の発言をおこなっており、それを聞いて私はゲラゲラと腹を抱えて笑うのだった。

 

ここで描かれる士官学校レオンシオ・プラドの生活は苛烈で残酷だ。

それは試験の時間に甘く見られている軍曹が試験監督だったときに「あちこちで机ががたがたと鳴りだす。床から数センチ持ち上げられ、落とされる。最初は、ばらばらの音だったが、しだいに調子がそろっていく。全員声をそろえて連呼する、《ネ、ズ、ミ。ネ、ズ、ミ。》」と生徒たちが共謀するからでもなく、野外演習のときに「畑を突っきり、怒りにふるえながら、力いっぱいに土塊を踏みつける。《ああ、もしこれがチリ人やエクアドル人どもの頭だったらな!軍靴の下から血が吹き出し、断末魔の叫びがあがるだろうに、くそっ!》」と悪態をつくからでもなく、下級生を虐げた上級生が「覆面をした者たちにおそわれ、まる裸にされたあげく、しばりあげられた。(…)体中あざだらけで、ぶるぶる震えていた。(…)台所にしのびこんで、四年生のスープ鍋のなかに、ポリ袋に入れてきた糞便を、ごっそり投げこんだ」という反撃を食らうからでもなく、外出日に初めて行った売春宿で夢に見た女が「肥満した胴体、輪郭のぼやけた風情のない唇、そして彼を仔細に観察する生気のない目」の持ち主であったからでもなく、かわいがっていた犬を怒りにまかせて「片方の手で、カーバが手ごめにしたあのめんどりの首をひねったみたいに、やつの脚をぎゅうぎゅうねじってやった。(…)脚を放してやってから、はじめてあいつの脚を駄目にしちまったことに気がついた。ちゃんと四本脚で立つことができねえんだ。前につんのめっちまうんだ。脚がよじれて、地面につけることができなかった」状態にしてしまったからでもなく、ある事件に関する生徒の告発を学校の体面保持を目的に取り下げさせるために大佐がその生徒がかつて書いて売っていたエロ小説を「さあ、読むんだ」と言って読み上げさせようとしたからでもなく、それを強要された生徒が「犬っころを時代の洗礼を思い出した。三年ぶりで、ふたたび入学時のあの言い知れぬ無力感と屈辱感をあじわった。いや、あれよりもひどかった。洗礼はすくなくともみんなで分かち合うものだった」という決定的な屈辱を受けるからでもなく、あるいは軍律に忠誠を誓い、その告発を支援した中尉に対して「「そりゃ軍律はだれだって守らなきゃならんよ」と大尉は言った。「しかしその解釈において賢明でなくちゃいかん。軍人はなによりもまず現実的でなければんらんのだ。実際の状況に即した行動が求められるんだ。規則をむりやりに物事にあてはめるのではなしに、規則を物事に合わせていくようにしなくちゃならんこともある」」という言葉が掛けられそして左遷されるからでもなく、密告したとして糾弾されている級友が潔白で自分こそが密告の張本人であると知っているにも関わらず周囲の様子を確認してから「不意に不安は消えた。(…)包帯の下で自分も、小さく唱え始めた、《密告野郎、密告野郎。》」と多勢に同調するからでもなく、ただただ、全体に通底するものとして、苛烈で残酷だ。それはどこまでも哀しく、けっこうなところえげつない。

 

三人の主要な若者たちにまつわる恋のエピソードもまた、同じ苛烈さと残酷さをたたえ、ボーイ・ミーツ・ガールの初々しさを垣間見ることはあれども、不意に軽侮の言葉が立ち上がり、不意に暴力が立ち上がる点において、あるいは最後まで読んだものだけが知るその恋の成り立ちという点において、苛烈で残酷であることに何ら変わりはない。最後にいくつかの救い、いくつかの男気、正義、そのようなものが見え、浄化されたような前向きな気持ちを読むものに抱かすことはあれども、それまでに積み重ねられたいくつもの時間を少しでも振り返れば、その苛烈さと残酷さを帳消しすることなど決して出来ない。

 

このえげつなさにバルガス=リョサの原点があり、それが他の作品にも拭いがたい影響を与えているということであるならば、私は彼の他の作品もぜひとも読まなければならないようにいま感じている。まあつまり、超面白かったということです。


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