5月、クロユリ団地、精霊たちの家、その時は殺され…
2013年6月1日
店を開ける前の時間に2日続けてナンバーガールを聞いていて、誕生日プレゼントとして友だちに『School Girl Bye Bye』のMDをもらった中学3年生のときからもう12年とか13年とかが経つわけだけど、いまだにナンバーガールの音は、私の耳を恐るべき強度で叩き続けることが再認識された。私は中学生で、そのあとに高校生で、狂ったように彼らの音を聞き、ライブを見たいがためにフジロックに行き、それからも色々な場所にライブを見に行った。彼らのホームページである「狂う目」に頻繁にアクセスし、何か、新しいライブの情報が、あるいは音源発売の情報がないかと、何か、何かがないかと、目を狂わせていたのだった。解散は3年生のときだった。赤坂に、それを目撃しに行った。その日のことは何も覚えていない。
いまでも、彼らの曲を聞いていると私の目頭はぐっと熱くなるらしかった。それがこのいくつかの朝の中で実感された。具体的な思い出に対してではなく、漠然とした時間に対する、どうしようもない取り返しのつかさなと、甘美さと。思えば、そんなのは高校生のときからすでにそうで、そのときの私がいったい何を思い出そうと躍起になっていたのかわからないが、ずっと、私は思い出すことの甘美さとともに生きているようだった。だから、最後のアルバムになった『Num Heavymetallic』の何曲目か、9曲目ぐらいだと思うけれども、そこで向井秀徳が、大人になった性的少女に託して歌った「思い出したくないから忘れることにするよ/思い出す必要はないからすっかり忘れてしまった/どうでもいいから思い出なんて/どうでもいいから記憶なんて/忘れてしまうよカンタンに/忘れてしまえば楽勝よ/記憶を消して、記憶を自ら消去した/記憶を消して、記憶を己でブチ消した/忘れてしまった/忘れてしまった」という言葉は、その時ついにスクールガールにバイバイをしたという叫びであり、私は、いつだってあった終わりの予感を初めて、一つの戦慄とともに実感し得たのだった。
と思って今ホームページを見たら5月22日に向井秀徳アコースティック&エレクトリックで岡山に来ていたらしかった… のんきに朝聞いて満足しているだけだった自分が呪わしい…
数年前に初めて見た向井秀徳アコースティック&エレクトリックは、怒涛の素晴らしさで、ギンギンに思い出を刺激されながら私はライブハウスの壁に寄りかかって、頬をボロボロに涙で濡らしたのだった。そのあとサインもらった。うれしかった。
近況。映画を見た。ロマン・ポランスキー/おとなのけんか。ルーベン・フライシャー/LAギャングストーリー。中田秀夫/クロユリ団地。要は相変わらず全然映画を見ていない。
『クロユリ団地』は半分ぐらいの時間を横向いて過ごしていたため全然怖くなかった。なんだ、全然怖くないじゃないか、と思いながら映画館を出ることが出来てよかった。ただ、あると思われているものが実はないんじゃないかということを示唆させていく一連の流れはすごくぞっとするものがあったし、介護の授業でベッドに横たわる級友の体のゴツゴツした物質性や、そこに立ち現れる言いようのない不気味さ(そのあとのドーンというやつではなく、そこにいたるまでの時間の不気味さ)は、とても嫌な感じがしてよかった。符牒とかそういうものではなく、何か、ホラーが駆動する瞬間。それはとても見応えがあった。サスペンスにしてもホラーにしても、種が明かされてしまう前の、ぼんやりと、しかし確かな予感を与えられた奇妙な宙づりの状態がやはり、一番面白い。
本を読んだ。イサベル・アジェンデ/精霊たちの家。ロドリゴ・レイローサ/その時は殺され…。要は相変わらずラテンアメリカを彷徨している。
アジェンデのマジックリアリズムな感じはどうも、あまりすっきりと楽しくはなくて、解説でもガルシア=マルケスの二番煎じ的な批判にはほとほとうんざりだ、というようなアジェンデの姿が書かれているけれど、でもどうしてもそうやって見てしまうところがあって、なんとなしに興ざめするところがあった。ただ、チリクーデターあたりまでの3代を描いた年代記っぷりはやはりとても面白く、エステーバン・トゥルエバの頑固親父の姿は『グラン・トリノ』のイーストウッドのようで、とても好感が持てた。かつて少女だったクラーラがあっという間に誰かの祖母になる、その時間のドライブ感にはっと息を飲んだ。そしてクーデター後のアルバを見舞った出来事の描写の苛烈さ。
レイローサ、現代企画室。文字がやたら大きい。グァテマラの先住民大量虐殺
というところで「ってことでいいんだっけ?」と思って検索ていていたら2ちゃんのラテンアメリカスレというのを見かけて見てみたら最初の方は落ち着いてあれこれと言われていたのが次第に貶し合いになっている様が見られて面白かった。
グァテマラの先住民大量虐殺を背景にした話で、軍部の非道を調べているっぽい人たちがある殺戮を録音したテープを聞いているくだりが素晴らしかった。この作品では録音されたテープに限らず、補聴器型の盗聴器とか、何か、その場所、その時間を脱臼させて重層的にする仕掛けが効果的でいい。人々はあっけなく死んでいく。
今日、営業中に15分だけ抜けさせてもらって次に読む本を買おうと丸善に行き、ガルシア=マルケスの『族長の秋』だけを買うつもりで目当ての場所に早歩きで向かって行ったら途中で見かけた2冊を併せて買うことになった。フアン・ホセ・サエールの『孤児』は取り寄せてもらうつもりでいたら意想外なことに在庫があったので取り置いてもらうことにした。ガルシア=マルケス以外に買ったのは『カフカと映画』という評論と、とてもゲスな感じがしてなんなんだこの取り合わせというか、ほんとなんなんだと思ったのだけど興味があったので『リーダーはストーリーを語りなさい』というビジネス書だった。ラテンアメリカとか言っているならばそれでなくて『生きて、語り伝える』を買うべきのような気もするけれど、なんとなく、店の経営というものをやっていると、ストーリーを語るということがきっと大切ですよねという気分がずっとあったので、引っ掛かって買ってしまった。15分のつもりが20分掛かった。
店を始めて今日で2年になった。