7月、東京その他

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カレンダーをあまり見ていないこともあって今が月のどのあたりに位置するのか曖昧な認識のままに日々を送ってはいるとは言えできるだけビールを飲むようにしている。出来る限り早い時間から飲めるだけ、飲むようにしている。そういうこともあって今が月のどのあたりなのかは、わからないままになっている。

それでも今日が選挙の日であったことは把握していたこともあり、夕飯を一家四人で取るという催しが開かれて夜に家にいたこともあり、テレビ東京の選挙特番を見ることはおこなって、池上彰の選挙特番はどれだけ面白いのかと期待をしていたのだけれども思ったよりは面白くなかったこともあり、こういう番組は選挙前にあった方がいいんだろうなという思いを強くしたわけだったし、そうは言っても家にあるテレビはアンテナに繋がっていないので見れない身分なのだけど、ツイッターで人々はどんなふうにリアクションしているのかなと、そういうのを見ながらテレビを見るという現代的なテレビ鑑賞をおこなった。そこでわかったことは面白ツイートみたいなものをわりと丸パクリして自分のツイートとして投稿する人というのが本当にいるんだなということで、短いツイッター閲覧の時間のあいだで複数のそれらしいツイートを目撃することになった。そういうおこないは私刑に掛けられたりはしないのだろうかと、人ごとながら心配をした。

 

この一週間、一週間なのか、10日ぐらい経っているのか、そのあたりもいまいちわかっていないのだけれども、埼玉の家で過ごしているなかで、私は本当に特別やることが見当たらない。やることが見当たらないというか、やることが見当たらなくなった瞬間にとんでもない空虚さに一気に見舞われる。いくらか友人と会って飲んだりをしてはいるけれどそうでない日はなんとなく東京に出て映画を見て、そのまま帰って、ということをするぐらいで、あとはぼーっとインターネットを徘徊したり、本を読んだり、ベランダに出て煙草を吸ったり、ビールを飲んだり、それぐらいしかない。そのため日夜、むなしさと孤独感が強まっていくような心地がある(バカンス慣れしていないため)。今日などは、休みに入ってからiPhoneのテザリング機能でパソコンを使っていることが祟り、通信料が6GB超えましたよ、7GB超過で通信速度制限ですよ、という警告のメッセージを受け取ることになってしまった。きっと今日明日にでも超過するのだろう。インターネットを剥奪された私は、いったいどのようにこの生を生きたらいいのか。

 

ある日の昼ごろ、通夜に出るため会社を一日休んだ父親と私が居間で鉢合わせ、私は残っていたご飯を納豆で食べ、食べ終わったぐらいで父親が買ってきたパンを一人で食べる、という状況があった。母親はもう10年レベルで続けているパートに出ていた。

27の息子と60を越した父がいて、母がパートのため不在の平日正午の居間、なんとまあ、それはなんというかなんとまあという光景だった。別段、二人ともにやましさがあるわけでもないけれども、それは一つの可能性の提示として、なんとまあという光景として体感された。

一つの可能性を可能性として勝手に感じることと、それを言表することのあいだには大きな違いがある。『親密さ』で言えば別れ話の喫茶店の席で「今何考えてんの?」と問われた女が「このコップの水をあなたに掛けたらどうなるのだろうかと考えていた」と答える場面、今考えていることは何かと問われて今ちょうどたまたま考えていた一つの可能性というかそのシチュエーションによって紋切り型的に想起されていた一つの可能性を答えることは、女にとってみれば質問への返答として妥当な行為であったわけだけど、それを不意に聞かされた男はその考えを不愉快で不穏当で不適切なものだと感じてしまう。その瞬間でなければ、女の答えはもしかしたら「コーヒーこぼしたわけじゃないのにソーサーが濡れてるけど特に気にはしない」とかにもなりえたわけだけど、相手に与える印象はそう変わらないだろう。この別れ話という場面においてその答えは不適切、不謹慎、と。だから、ふわふわといくらでも分散される考え=意識などは質問すべきことでは多分なくて、男が求めていたようなことを聞きたかったのならば「今のこの状況と流れを踏まえて自身の責任において発言するならばそれはどういった発言になるとお考えですか」と尋ねるべきだろう。しかしそう考えるのは、正しいけれど間違っていることなのかもしれない(そもそも正しくもないかもしれないけど)。

 

昼前に起きて簡単にご飯を食べて、東京に出る。映画館に行く。映画館を出る。茶をしばくこともなく、埼玉に帰る。夕飯を食べる。友人と飲む日以外は、そういう暮らしを暮らしている。母と二人でカフェに行ったこともあった。連れられて行ったその店は意想外にとてもいいところだった。母とカフェに行った日は、昼前に起きて簡単にご飯を食べる、母とカフェに行って茶をしばく、駅まで送ってもらって東京に出る、ひげも切ってくださいと言ったら追加で800円取られながら髪を切る、友人と飲む、という一日だった。その日は映画を見なかったが、人と話すことは素晴らしいことだった。

 

日々東京におもむいて見た映画は今のところ次の通り。

ホン・サンス『3人のアンヌ』、ニコラス・レイ『We Can’t Go Home Again』、ハーモニー・コリン『スプリング・ブレイカーズ』、ミゲル・ゴメス『熱波』、ミゲル・ゴメス『自分に見合った顔』、アントニオ・レイス/マルガリーダ・コルデイロ

『トラス・オス・モンテス』、ロバート・アルトマン『ナッシュビル』、ベルナルド・ベルトルッチ『孤独な天使たち』

何が楽しいと言えば、それら8つの映画を見るために7つの映画館に行っているということが楽しい。それだけ選択肢があるということに対して地方に住む身としては羨望するかといえば特別そういうものはなくて、ただ単に、その動きが懐かしい。そうそう、そうだったよねと。かつて体に馴染んでいたあの感覚が蘇る。そうそう、これだった。

 

大学時代からの友人と五反田で飲んだ。五反田のあとで流れて行った野毛ではそうでもなかったのだけど、五反田で飲んでいた4時間とかのあいだは、話しながら驚きを覚えるほどに映画の話以外していなかった。

その友人がまだ見る機会を作れていないことなどまるでお構いなしに、店が賑やかだったことも相まって極めて声高に、私は京都で見た濱口竜介の諸作についてまくし立てていた(いや、もう超ほんと、だからもう、悪いけど超やばいから、という塩梅に)。

東北の3部作は思い返してみても本当にすごく素晴らしいものだったのだけど、それと同時にやっぱり不思議で、いったいどうしてそうなったというのが全然わからなくて、なんだかわからないけれどもすごいことであるなあと感心というか驚愕するばかりなのだけど、当初は、この素晴らしいいくつもの顔の現れの感じというのは、印象に全然残らなかったり退屈だったりした対話を考えると逆説的にわかるのではないかと思っていた。監督二人が聞き手を務める回というのが大体においてその退屈だった回で、なんでだろうと考えてみると、それはその時間を通して話し手/聞き手という役割分担がなされてしまっていることも作用して、こちらの記事で言うところの「語り」ではなく「証言」に近いものになってしまっているからだじゃないのかと。その時の聞き手の顔が、「通じてる顔」ではなく、「しゃべる顔」を跳ね返してしまう「見る顔」になっているからじゃないのかと。見ていて「うわー」という思いを私に与えてきた対話はことごとくに、対話者二人の関係性が画面から横溢するような感じで、そこでおこなわれるのはどこまでも語り合いで、どこまでも通じ合いで、二人の親密さがカメラという異物感を乗り越えたことによって、無防備で開かれた顔や言葉が立ち現れたのではないかと、そういうふうに思っていたのだけど、あの真正面の切り返しショットを撮るにあたりカメラがどのように置かれていたのかを聞いてしまったあとでは、ただただ、「不思議で、いったいどうしてそうなったというのが全然わからなくて、なんだかわからないけれどもすごいことであるなあと感心というか驚愕するばかり」だ。というその驚愕の部分は、飲みながら友人に伝える段階では「ていうことをしていてそういうことが起きてるっていうさ、えー!?なんでー!?っていうさ、やばくないこれ!?」みたいな感じに変換されている。

ところで、監督たちが聞き手の回がわりと退屈と先ほど書いたのだけど、ただ、濱口監督が聞き手の二つ、図書館員の方と、亡くした友人のことを話す方の回は、他の対話での「なんという親密さ!」みたいな面白さとはまた別種の面白さがあって、その面白さはけっこう、えげつなさというのと同義だったし、それはそれで、なんというか「うわー」というものだった。

なんというか、そういうことを飲みながら延々と話し続けていたのだけれども、これは前回の日記でも書いた気がするけど、これだけ何度も蒸し返したい、人に話したい、人の話を聞きたい、と欲望させられることは私にはそうない経験なので、なんというか、これはそうそうないことであるなと、人に会って話すたびに実感している。

 

その夜はその友人の家の近所の野毛で朝方まで飲み、白み始める空は見えない部屋で眠った。そのマンションの部屋は、最近友人が購入したものだった。同い年の友だちが分譲マンションを買うのかと、投資目的とかいろいろあるらしいけれども、マンションなんていう桁違いの買い物をするのかと、それはけっこう、考えれば考えるほど「すごいなあ」という気分になる。

翌日、ジャック&ベティに初めて行き、『孤独な天使たち』を見た。予告された滂沱の記録。ベルトルッチ前作の『ドリーマーズ』で3人組が一番新鮮な光を受けるためにシネマテーク・フランセーズの最前列に座るみたいなことがあったような記憶が蘇ったこともあり、再見の余裕みたいなものもあり、最前列に座って見た。最初は最前列きついかなと思いながら見始めたがそんなことは問題ではなくなった。

水の中で息を止めるロレンツォの背中。14歳の少年のやわらかそうな肩甲骨周辺の隆起、全体を覆う金色の産毛。なんとまあ、素晴らしいことか。オリヴィアは相変わらず、一挙手一投足が素晴らしかった。デヴィッド・ボウイ、親密さ、親密さ、親密さ…

 

カルロス・フエンテスの『澄みわたる大地』を今は読んでいる。いくらか、ボラーニョの『野生の探偵たち』と通じるところがあって、そこが面白いからというわけではないけれども、漫然と読み進めている。夢は終身雇用ですと言う人がいたからいい冗談だと私たちはゲラゲラ笑ったけれども夢は詩人になることです、革命戦士になることです、そう言うのを聞いてもお前らはやっぱり高らかに笑うのか?

駅からの帰り道、ピーター・ブロデリックの「Hello To Nils」を聞きながら歌っていたら涙がこみ上げてきた。どうせならば大声で泣いてしまいたかった。それもこれもあと少しで7GBを超過するせいであると言い切ってしまえばお前らはここぞとばかりに笑うのか?俺が明日は『ポーラX』を見て惨めさここに極まれりみたいな状態を目指したいですと言えばお前らは腹を抱えて笑うのか?

仕方がないので冷蔵庫に一本だけあったロング缶を開けた。ろくでもない言葉を発するぐらいなら酔っ払ってゲロを吐いた方がこの口の使い方として正当であるため。


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