7月、渋谷/京都、吉祥寺/フランス

book cinema text

とにかくビールを飲もう。そんなふうにして相変わらず過ごしている。コーヒーよりもビール、そんな生活を送っている。昨日もオーディトリウム渋谷に「はじめての小川紳介」特集の土本典昭『パルチザン前史』を見に行って、ついてから時間が余ったので下のカフェで茶でもしばこうかと思ったら気づいたらレーベンブロイを頼んでおり、ビール飲んでから映画とか眠くならないといいけれども、と懸念していたら懸念通りに眠くなり途中ウトウトとしてしまった。上質な映画体験よりも、アルコールを摂取することが優先されるらしい。

小川紳介の特集だからと、『パルチザン前史』も小川さんが監督だと思っていて、見る前に「これから小川紳介『パルチザン前史』を見る」みたいなことをツイートして、そのあとに小川さんでなかったことが発覚し、「小川さんでなく土方さんだった」と私はツイートして、たぶん私は土本典昭という人と舞踏家の土方巽を混同しているというか、どちらも、字面では見たことあるけど発音したことないし作品にも触れたことない、ということでまあ、何一つ自分の中にリアリティのある記憶として持っていなかったのだろうということが顕になった格好だった。そもそもそんな「見ます」みたいな「なう」みたいなツイートする必要があるのか、みたいなところは問われるべき問いだろうけど、最終日とはいえ夜の回もあったし、私がそれをツイートすることで何か効果が生まれるとも思わないけれども、万が一にも私のツイートを見て「あ、やってたんだ、夜もあるんだ、行ってみよう」みたいな人がいたとしたら、それは社会的に意味と価値のあることかなみたいな意識がそう強いわけでもないにしてもある感じがするということでそういうおこないをしている面というのはあるからそれに免じて自らのおこないを許したいと、そのように思うというようなことはそうあるわけでもなく日々自己嫌悪と自己憐憫を繰り返す。自己陶酔もあるのでは?と誰かは言うかもしれないけれどもその通りなのかそうでないのかは私が判断するには難しすぎるような気がするというか自己陶酔は避けたい香りがあるということかもしれなかった。

 

『ポーラX』のピエールが書いている小説なんて本当に自己陶酔まみれみたいな感じがするというか丘のうえに卵みたいな岩があった、僕はそれを恐怖岩と名付けた、なぜならその岩の隙間には狂気が入り込む余地がなかったからみたいな。なんなんだよそれは!!!うるせーよ!!!!!と言いたくなった。

 

その『ポーラX』を見に吉祥寺に行ったついでに、何で知ったのか覚えていないのだけど百年という本屋さんに寄った。ものすごく好みな書店で、A)作者に還元されない B)読み終えてカバーを外して本棚に収めるまでが私にとって読書という行為であるためブックカバーをつけてもらえないことがものすごい大きな障壁となる C)それ故か買っても読みきることがまずない という理由からほとんど古書というものは買わないのだけど、それにも関わらず6冊も買ってしまって、1冊はすでに読み終えたし、2冊目も今日読み終えそうという順当な、そして私にとっては極めて珍しい消化のされ方をしている。

買った本は以下。

上野清士『ラス・カサスへの道 –500年後の〈新世界〉を歩く』、ルイサ・バレンスエラ『武器の交換』、ホセ・マリア・アルゲダス『深い川』、フアン・ルルフォ『燃える平原』、フリオ・コルタサル『かくも激しく甘きニカラグア』、マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』(1981年新潮社刊の単行本)

バレンスエラとアルゲダスは名前すら知らない人だったので、いい出会いだった。この二冊はともに現代企画室のラテンアメリカ文学選集という1990年から始まった企画のもので、セルバンテス賞コレクションもそうだし、ラテンアメリカ小説を読もうとすると本当にすぐに現代企画室の名にぶつかる。楽しい。

 

『パルチザン前史』は私が学生運動についてまったく理解がないためか、全体としては「なんだかわからないけどがんばっている人たちがいたんだなあ。町が燃えてる!燃えてる!」みたいな感じというか、途中は眠ってしまったぐらいなのだからそう面白く見れたわけではなくて、京都大学前とかの大通りでの学生と機動隊の攻防の、火炎瓶投げ込んで本当に燃え盛っているあの感じ、投石して投石して踵返して走りだすあの感じを見ていたら、フィリップ・ガレルの『恋人たちの失われた革命』とか、ベルトルッチの『ドリーマーズ』とか、ああいうフランスの映画で見ていた光景に似ているなあ、というか日本でもこんな感じになっていたのかあ、みたいな照合作業がされて終わっちゃう感じもあって、いや、攻防戦(この言い方すらわからない)のあの様子はすごい格好良かった。

でもそれよりも、滝田修の予備校での授業風景(ものすごくいい)とか、自宅でローザ・ルクセンブルクの写真を並べながら好きな一節を読み上げるところとか、あるいは議論中の若者たちのくだけた関西弁の響き(一人すごく端正な顔立ちをしてすごくいい笑顔をしてすごく柔らかい関西弁を話していた)とか、そういうところがよかった。顔が見えてくると面白がれる、というタイプなのだろうか私は。

 

今日は映画が終わって埼玉に戻って必要な買い物をして立ち飲み屋でビールを2杯飲んで家に帰った。完全に休み飽きてきた。毎日疲れるし虚しい。私は基本的にうまく生きることができないタイプというかメンタリティじゃなくてエネルギーじゃなくて、体力、何かそれに該当する単語があったはずなのだけどあ、やっと出てきた、バイタリティ。継続的に生きていく上で必要なバイタリティみたいなものがないんだろうなと、それを実感する。実感する。今なんとか生きていられているのも、親であったりという存在に庇護されてるからであって、自分一人じゃ立つことすらできないんだよなと、それを実感する。痛感する。


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